玉佩(璽)としての八坂瓊曲玉と「言葉の隠蔽工作」

 

儒家經典である『礼記・玉藻』には

「君子無故、玉不去身(君子はゆえなくして、玉を身体から去らず)」

と記されています。

 

古代中国において「玉」とは

単なる観賞用の宝石ではなく

君子が自らの徳・生命力・そして

権力の象徴として肌身離さず身につける

「身分証(玉佩)」でした。

 

楚系統一王朝(熊楚)の本家・熊野国の

軍事最高司令官・八坂彦もまた

この玉佩を肌身離さず

身につけていたはずです。

 

ヤマト政権がこの玉を

手に入れたということは

八坂彦が自ら差し出したのではなく

クーデターの激戦の末に彼を暗殺し

その血に染まった遺体から

直接むしり取った「血塗られた戦利品」

であったことを意味しています。

 

「八尺」という偽装タグと「ヤサカ」の残存

 

現在「八尺瓊勾玉」と

表記されるこの宝物ですが

「一尺=約30cm」と計算すると

「八尺」は約2.4mもの

巨大な岩塊になってしまいます。

 

しかし、現代の

「剣璽動座」において

トヨタ・センチュリーロイヤル

(宮内庁管理部車馬課が管理する御料車)

の後部座席専用台座に収まるサイズ

であることからも、2.4mという表記は

完全な物理的虚構(フェイク)です。

 

彼らはなぜ、このような

矛盾した字を当てたのか。

 

それは、元の所有者である

「八坂(ヤサカ)」という旧王朝の

軍事最高司令官の固有名詞を

消し去る意図で行われたからです。

 

「音(ヤサカ)」は

言霊の反発を恐れて残しつつ

「八尺(単に巨大な玉)」という

文字(GUI)を当てることで

盗難車の車台番号を削り取るような

「アイデンティティ剥奪工作」

を行ったのです。

「八坂彦」の記録抹消と別名の乱立、系譜の「コンパイル」

ヤマト政権は「八坂彦」の記録を

データベースから徹底的に

抹消・抑圧または改竄しました。

 

そのため現在でも「八坂彦」は

単独のWikiページすら存在せず

わずかに「饒速日命の防衛の一柱」

として名を伏せられているに過ぎません。

 

しかし、その巨大な軍事の痕跡は

系譜の「コンパイル(合算・縫い合わせ)」

というバグとなって残されています。

 

「八坂」という名では

崇神天皇の子・八坂入彦命と

その娘で景行天皇の皇后とされる

「八坂入媛命」についての記録がありますが

今までの考察通り神武=仲哀である以上

それ以前の天皇は全て、実在の楚系王族や

中国の歴史上の人物から創作された

キメラと考えられますので、この記録は

熊野国の軍事トップの八坂彦の系譜を

転用したものなのではないかと思います。

 

八坂入媛命の系譜↓

「父:八坂入彦命 母:未詳 同母妹:弟媛 夫:景行天皇子:成務天皇・五百城入彦皇子・忍之別皇子・稚倭根子皇子・大酢別皇子・渟熨斗皇女(渟熨斗姫命)・渟名城皇女・五百城入姫皇女・麛依姫皇女・五十狭城入彦皇子・吉備兄彦皇子・高城入姫皇女・弟姫皇女」

 

したがって、この「八坂入媛命」も

本当は建御名方の后とされている

八坂刀売神 であり

(別名 :  八坂斗女命、八坂比売命、八坂刀自神、八坂入姫命 、八坂姫、姫大明神等等)

八坂入媛命が産んだとされる

「13人もの子供たち」の記録は

「建御名方(出雲の軍事王)の妻と側室たちが残した強大な武族の血統」

を「景行天皇と八坂入媛命の子供」

として一括で処理・吸収した結果

だと考えられます。

 

そして八坂入媛命の「同母妹:弟媛」

が、八坂彦のもう一人の娘であり

以前考察した役小角の

母方にあたる血統で

八咫烏(三嶋湟咋・賀茂建角身命)の

息子・玉依日子の妻となった

人物だったと考えられます。

 

これは、熊野本家の軍事トップ

(八坂彦)が仕掛けた

とてつもない戦略的政略結婚です。

  • 長女のルート(陸軍・出雲):建御名方と結び、列島最強の「武力・陸上防衛網」を構築。
  • 次女のルート(海軍・諜報):八咫烏(賀茂氏)と結び、高度な「航海術・情報ネットワーク・呪術」を統合。

この妹(弟媛)と賀茂氏の血脈の果てに

あの「役小角」が誕生します。

 

役小角が、列島の東西に

楚系の防衛ラインを正確に

インストールできたのは

彼の血肉の中に

「八坂家の軍事コード」と

「賀茂氏の諜報・ネットワーク構築力」

が完全にハイブリッドされて

受け継がれていたからではないでしょうか。

 

『楚辞・招魂』に刻まれた「曲瓊(qǔ qióng)」 

 

中国の『漢語大詞典』によれば

『楚辞・招魂』の中に

以下の記述が存在します。

 

 「砥室翠翘,挂曲琼些。」(王逸 注:「曲琼,玉钩也。」) 

 

唐の温庭筠や清代の文学にも

引用されるこの「曲瓊」という

言葉は、楚の独自表現であり

屈原ら楚の文人が

「曲がったフック状の美玉(玉鉤)」

を指して使った言葉です。

 

ここは、すごく大事なことなので

しつこく書かせていただきますが

この「曲玉」「曲瓊」という表現は

屈原が書いた「楚辞」の中だけのもので

中国の他の文献には登場しません。

 

後漢の学者・王逸がわざわざ

「曲瓊とは玉鉤(フック状に曲がった美玉)のことである」

と注釈を入れている通り、これは

楚のローカル言語・独自表現でした。

 

それが、日本の三種の神器とされる

「八坂瓊曲玉(八尺瓊勾玉)」に

使われているということなのです。

 

「八尺瓊」の「瓊」と「曲玉」の完全一致 

 

日本の古代文献において

勾玉を指す際に使われる

「瓊(に・けい)」という漢字は

他ならぬ『楚辞』において

至高の美玉を指すために

多用された文字です。

  • 楚の言葉:「曲瓊(曲がった美玉)」 
  • 列島の言葉:「曲玉(曲がった美玉)」/「八尺瓊(やさかに)」

これは、楚王族・屈原の後裔である

熊楚王朝の人々が「曲玉」や

この「曲瓊」という言葉と概念を

定着させた動かぬ言語的証拠です。

 

「魂を繋ぎ止めるフック」としてのシャーマニズム 

 

「曲瓊」が初出する『楚辞・招魂』は

彷徨える王の霊魂を呼び戻し

この世に繋ぎ留めるための

最高度の呪術詩です。

 

『楚辞・招魂』の中の室内で

「曲瓊(フック状に曲がった美玉)」

が掛けられているのは

「王の魂(霊威)を引っかけて引き留めるための呪術具」

であったからです。

 

 古代日本において、勾玉が

「王の魂(タマ)を身体に繋ぎ留めるための玉の緒」

として機能し、即位儀礼(八十島祭など)

で用いられた根底には

『楚辞・招魂』に描かれた楚の

密教的・シャマニックな思想が

そのまま移植されていたのです。

 

 48歳の年齢差:「父と子」に圧縮された「祖父と孫」

 

ここで、前回の記事を書いた後に

新しい事実が色々判明しましたので

それを元に考察を組みなおしていきます。

 

『日本書紀』持統3年条に

 乙未(4月13日)皇太子草壁皇子尊薨 

とある直後に

 甲辰(4月22日)春日王薨 とあり

草壁皇子の死からわずか9日後に

「春日王」という人物が亡くなっています。

  • 4月13日:草壁皇子 薨(享年28) 
  • 4月22日:春日王 薨(わずか9日後)

しかし、この人物の素性が

徹底的に消されてしまっているのです。

 

父母もない。年齢もない。位階もない。

病死なのか事故なのかもない。

誰の子なのかも書かれない。

葬儀の詳細もない。

ただ、「春日王薨」だけ。

これは、かなり特殊です。

 

ということは、この

689年薨の春日王は

草壁皇子の死と連動して

いた可能性が考えられます。

 

今までの考察に基づき

天武天皇が漢皇子であったなら

母の宝皇女(594年生まれ)が

当時の適齢期(16~18歳くらい)で

高向王に嫁ぎ、二十歳前頃に

天武(漢皇子)を産んだとしたら

彼は遅くても614年頃の生まれ

という事になり、天智より一回り年上で

持統天皇より30歳以上も年上

ということになります。

 

普通に考えて、三十歳以上も年下で

しかも、父の高向王を殺害した勢力の

象徴である天智の娘を

天武(漢皇子)が娶るはずがない

という視点に立つと

鸕野讚良皇女とはいったい

どういう立場の女性であったのか?

という疑問が湧きます。

 

史実では天智の娘で

母は蘇我遠智娘となっていますが

「蘇我氏の娘が天智と婚姻すること自体があり得ない」

と思いますので、蘇我遠智娘は本当は

漢皇子(天武)の息子の妻であり

そこに鸕野讚良を紛れ込ませ

天智の娘として系譜に接ぎ木したのでは

ないかと思います。

 

以前考察しました通り

天智天皇の正体は

「聖徳太子の孫・葛城王」なので

「宝皇女」の子ではありません。

 

なので、天武(漢皇子)とは

そもそも兄弟ではありませんし

天智(葛城皇子)の本当の両親は

聖徳太子の子・長谷王と

田目皇子の娘・佐富女王

だったと考えられます。

 

したがって、蘇我遠智娘の

大田皇女→大津皇子のラインも

天智の血が入らない、天武の直系で

あった可能性が高いです。

 

鸕野讚良(うののさらら)の名の

由来として

「菟野馬飼造(うののうまかいのみやつこ)」

「娑羅羅馬飼造(さららのうまかいのみやつこ)」

この二氏族の壬申の乱における

動きを追うと、鸕野讚良が単なる

「天皇の娘」などではなく

壬申の乱の勝敗を決定づけた

「最強の軍事(騎馬)ネットワークの令嬢」

であったという鳥肌の立つような

実態が浮かび上がってきます。

 

菟野馬飼造・娑羅羅馬飼造の実在と、壬申の乱での動き

 

まず大前提として

『日本書紀』には河内国

(現在の大阪府四條畷市・大東市周辺など)

に「菟野馬飼造」と

「娑羅羅馬飼造」という

馬の生産と騎兵部隊の育成を担う

強力な渡来系軍事氏族が

実在していたことが記されています。

 

壬申の乱(672年)において

この地域(河内)はどう動いたか。

 

当初、河内国は近江朝廷

(大友皇子・天智側)の支配下にあり

近江側は河内から

大和(飛鳥)の天武側(大伴吹負の軍)

を鎮圧するために大軍を派遣しました。

 

ところが、戦いの直前

河内国のトップである河内国司・来目塩籠が

密かに兵を集めて「天武側に寝返る」

というクーデターを計画します。

 

計画は近江側の将軍(壱伎韓国)

に露見し、塩籠は

自害に追い込まれますが

国司が寝返りを画策したということは

その足元にいた河内の強大な軍事力=

「菟野・娑羅羅の馬飼集団」が

実質的に天武側に内通していた

(あるいは協力の密約があった)

ことを強く示唆しています。

 

『日本書紀』では、乙巳の変で

蘇我入鹿が暗殺された直後

蘇我氏の軍事トップとして

陣を構えた「高向国押」は

中大兄皇子(天智)側の説得に

あっさりと応じ

「主君(入鹿)が死んだのに戦っても意味がない」

と軍を解散して逃げ去った

「腰抜けの裏切り者」として

描かれています。

 

しかし、これは中臣鎌足(藤原氏)が

後から書いた

「蘇我の同盟軍は我々の正義の前に戦意喪失した」

という露骨なプロパガンダです。

 

東漢氏や高向氏は、軍事・外交の

スペシャリスト集団です。

 

主君が討たれたからといって

無血でホイホイと降伏するような

柔な組織ではありません。

 

高向国押は、入鹿の死という

致命的な状況を見て

飛鳥での玉砕(無駄死に)を

避けたのです。

 

彼が軍を解散した本当の理由は

「河内の渡来系軍事力を無傷で温存し、蘇我・高向の血を引く若き希望『漢皇子(天武)』を守り抜き、将来の反撃の機会を待つための『戦略的撤退』だった」

と考えるべきです。

 

国押がこの時、軍事力を温存して

河内に持ち帰ったからこそ

27年後の壬申の乱において

馬飼集団の騎兵隊が天武軍として

火を噴くことができた。

 

高向国押は裏切り者などではなく

「楚系・渡来系ネットワークの軍事資産を、次世代(天武・鸕野讚良)へと繋いだ最大の功労者」

だったのではないでしょうか。

 

勝敗を決した「騎馬隊」の活躍   

 

国司の塩籠は死にましたが

大和(飛鳥)を守る天武側の

将軍・大伴吹負は、近江朝廷の軍を

撃退することに成功します。

 

なぜ勝てたのか。

 

記録には

「吹負の軍勢は騎馬隊の活躍で近江軍を破った」

とあります。

 

大和側の吹負軍に

機動力に優れた大量の軍馬を提供し

あるいは自ら騎兵として

加勢したのは誰か。

 

それこそが、天武軍に協力した

「菟野・娑羅羅の馬飼集団」

だったと考えられます。


天武からの絶大な恩賞(683年)

 

彼らが壬申の乱で

天武側を決定的に助けた証拠が

乱から11年後の天武12年(683年)

10月の記録に残っています。

 

天武天皇は、

「川内馬飼造・娑羅羅馬飼造・菟野馬飼造」

の三氏族に対し、同時に

「連(むらじ)」という

非常に高い姓(カバネ)を

与えて大出世させています。

 

単なる地方の馬飼い集団が

揃って中央の有力貴族に

列せられたのです。

 

これは、彼らが壬申の乱において

「天武に勝利をもたらした最大級のスポンサーにして軍事基盤」

であったことへの

特大の恩賞としか考えられません。

 

「鸕野讚良(持統天皇)」の真の正体

 

以上の事実を、さきほどの

「接ぎ木説」と重ね合わせてみてください。

 

鸕野讚良は

「天智天皇の箱入り娘」

などではありません。

 

彼女の真の正体は

天武軍の勝利の鍵を握った

巨大軍事基盤

「菟野馬飼造」「娑羅羅馬飼造」

を束ねる一族の娘

(あるいは彼らに養育・擁立された強大な地方勢力の象徴)

です。

 

そこから考えられるのは

鸕野讚良は天武(漢皇子)ではなく

年代的に天武の息子の妻だった

のではないかということです。

 

河内国(現在の大阪府東部)は

古代において渡来系技術集団

(金属加工、土木、そして馬飼)の

一大拠点であり

蘇我氏の最強の地盤

(軍事・経済の心臓部)でした。

  • 高向(錦部郡):南河内エリア現在の大阪府河内長野市高向周辺。ここは渡来系の知識人・高向黒麻呂の出身地であり、天武の父である「高向王」を養育し、その名を冠した高向氏の拠点です。すぐ隣には蘇我氏の巨大拠点である「石川郡」が隣接しています。
  • 娑羅羅・菟野(讃良郡など):北河内エリア現在の大阪府四條畷市・大東市周辺(讃良郡)。馬の飼育に適した生駒山西麓の広大なエリアで、「娑羅羅馬飼造」や「菟野馬飼造」が強大な騎馬軍団を育成していました。

南河内(高向)と

北河内(讃良)は

同じ生駒山系〜金剛山系の

西麓に沿った南北のライン

(現在の東高野街道など)で

密接に繋がっており、共に

「河内の渡来系・蘇我系軍産複合体」

という一つの巨大なネットワークを

形成していました。

 

つまり、天武(高向王の血を引く)と

鸕野讚良(讃良の馬飼集団の血を引く)

は最初から

「河内の同郷・同盟ネットワーク」

のど真ん中にいたことになります。

 

天武の息子(春日王)の妻として

同盟ネットワークの強力な軍事力

(馬飼)を背景に持つ

鸕野讚良が選ばれたのは

必然中の必然だったのです。

 

だからこそ、壬申の乱において

彼女は天武軍の司令部(伊勢・桑名)

に同行し、最高レベルの軍事機密に

関わることができたのです。

 

そして彼女自身が

「実家の強力な騎馬隊を動かすキーマン」

だったのかもしれません。

 

その後、藤原不比等らが

歴史を改ざんする際

「馬飼い上がりという出自では天皇の正統な妻(のちの女帝)として都合が悪い」

と考えた。

 

そこで、彼女を

「敵の親玉である天智天皇の娘」

ということに偽装して系譜に接ぎ木し

同時に姉妹とされた大田皇女(大津皇子の母)

も巻き込んで、血統をロンダリング

したのではないでしょうか。

 

持統天皇が、夫(義父)の死後に

あれほど武断的で苛烈な権力を

振るえた理由も、彼女の背後に

「菟野・娑羅羅という古代最強の騎兵ネットワーク(物理的な軍事力)」

が控えていたと考えれば

すべての辻褄が完璧に合います。


天武(漢皇子)が614年生まれだとすれば

662年生まれの草壁皇子との間には

48歳もの年齢差があります。

 

古代の感覚において、これは明らかに

「祖父と孫」の年齢差です。

 

今までの考察では

草壁皇子は持統の子ではなく

大津皇子を排除するためと

楚王統の幼い皇子(文武)を

手に入れるための駒

だったのではないかとしました。

 

しかし、草壁皇子の本当の父は

天武(漢皇子)の在地時代の子で

あった可能性が高く、鸕野讚良も

その時代の天武(漢皇子)の息子の妻

だった可能性が高いことから

草壁皇子の死の9日後に亡くなった

「春日王」が草壁皇子の本当の父であり

鸕野讚良の夫だったのではないでしょうか?

 

草壁皇子の別名は

「日並知皇子(ひなみしのすめらみこと)」。

 

「並(なみ)」には

「並ぶ、次ぐ」という意味があり

「日並」とは「日を継ぐ者」を意味します。

 

もし実父が

「春日王(かすがおう/はるひのおおきみ)」

であったなら、

「春日の血(日)を継ぐ者=日並」

という、極めて直球のネーミングになります。

 

ヤマト政権の表向きの系譜

(アマテラスの「日」)とは別の

隠された在地系・楚系の

「日」の血統がここに暗示されています。

 

689年4月「9日間のクーデター」と曲瓊の喪失 

 

天武天皇の崩御(686年)後

草壁皇子はすでに24歳前後であり

即位可能な年齢であったにもかかわらず

なぜ鸕野讚良は「称制」を執り行い

即位を先送りしたのでしょうか。

 

それは、天武(漢皇子)の母である

宝皇女(皇極・斉明天皇)が辿った

凄惨な生涯と

のちに鸕野讚良(持統天皇)が取った

行動パターンを重ね合わせた時

「楚系王統の母たちが、危機に際して自ら女帝という『盾』となって矢面に立ち、命懸けで我が子(真の王)を守り抜く」

という、究極の生存戦略(プロトコル)

の系譜が浮かび上がってきます。

 

鸕野讚良は自ら「盾(称制)」となり

不比等らの謀略から息子・草壁を

守りながら過酷な政治的引き伸ばしを

図っていたのです。

 

この緊張感が決定的な

破局を迎えたのが

持統3年(689年)4月でした。

  1. 4月13日(草壁皇子の暗殺):不比等の刺客により、草壁皇子が襲撃され命を落とします(享年28)。しかし草壁は「八坂瓊曲玉(玉璽)」を、父である春日王または舎人らに託し、退避させることに成功していたと考えられます。
  2. 4月13日〜21日(春日王への拷問):「玉」が無ければクーデターは不完全に終わるため、不比等らはすぐさま春日王を拘束し、「玉のありか」を吐かせようと苛烈な拷問を加え続けたと考えられます。
  3. 4月22日(春日王の拷問死と完全消去):しかし春日王は、最後まで口を割らず、拷問の末に絶命(「春日王薨」)しました。政権側は彼の年齢・位階・父母の記録をデータベースから完全消去してゴミのように捨てました。春日王と草壁(日並)の二人に共通する「日」のコード(太陽・楚の火信仰)もろとも、歴史から抹消したのです。

 

名前のはっきりした「側近名簿」は

残念ながら残っていませんが

草壁皇子の宮の舎人集団については

非常に濃い記録があります。

 

『万葉集』巻2には

「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」

として、草壁皇子の宮に仕えた

舎人たちの挽歌23首がまとめて残っています。

 

奈良県立万葉文化館も

この「舎人」を日並皇子(草壁皇子)

の宮の舎人集団としています。

 

その中でも特に印象的なのが

巻2-176です。

 

天地とともに終へむと思ひつつ仕へまつりし心違ひぬ

「天地が続く限りお仕えしようと思っていたのに、その願いがかなわなかった」

という歌です。

 

「心違ひぬ」の真意:単に

「長生きして仕えたかったのに早死にして悲しい」

という通常の哀悼ではありません。

 

「天地が続く限り(草壁が即位し、新時代が開けるまで)絶対的にお支えする手はず・手応え(約束)があったのに、その計画・前提が根底から打ち砕かれた(意に反した事態が起きた)」

という衝撃と無念を吐露しています。

 

即位を目前に控えた皇子を守るべく

配置されていた直属の

軍事・警護集団(舎人たち)の目の前で

防ぎきれぬ電撃的なクーデター

(毒殺・襲撃)が強行された。

 

彼らが味わったのは

主君を救えなかった痛恨と

一瞬で未来を奪われた

強烈な挫折感だったはずです。

 

『国家珍宝帳』「黒作懸佩刀」の異様な伝来ルートの謎

 

そして、何より決定的なのが

『国家珍宝帳』(正倉院文書)

に記された「黒作懸佩刀」の伝来史です。

 

改めてこの伝来ルートを整理すると

異常としか言いようがありません。

  1. 草壁皇子(日並皇子)が常に佩持(常用していた) 
  2. 不比等へ渡る(賜与) 
  3. 文武天皇 即位時に不比等から献上される(697年) 
  4. 文武天皇 崩御時に再び不比等の元へ戻る(707年) 
  5. 不比等 死去時に聖武天皇へ戻る(720年)
  6. 最終的に正倉院へ(のちに除物)
【異常なポイント】
なぜ皇太子の常用していた太刀が
一臣下に過ぎない藤原不比等の手へ渡り
天皇の即位や崩御のたびに
「不比等と天皇家の間をブーメランのように往復」
しているのか? 
 
通常、前皇太子の遺品であれば
宮中に保管されるか、そのまま
我が子(文武)へ直伝されるはずです。
 
それが一度不比等の
「個人所有(あるいは保管)」となり
即位の「儀礼」として文武へ献上され
文武が死ぬとまた不比等のもとへ
回収されている。
 
これは、不比等がこの刀を
単なる「形見の刀」としてではなく
「王権の象徴(レガリア)」
の管理者・所有権の握り手として
扱っていた動かぬ証拠です。
 
レガリア編を読んでくださった
方は、ピンとくるものが
あったのではないでしょうか?
 
そうです。
この「黒作懸佩刀」を
「坂家宝剣(泰阿剣・天叢雲剣(草薙剣))」
として見た場合
坂家宝剣の外装の描写と歴史的状況の
両面から完全一致するのです。
 
外装の一致:
 坂家宝剣は「鞘は平鞘、全体は黒漆地…」
と記されており、まさに
「黒作(黒漆で塗り固めた装飾)」
の懸佩刀そのものです。
 
そして、坂家宝剣の
皇位継承レガリアの性質とも一致します。
 
689年4月、不比等らヤマト新体制派は
クーデターを強行し
草壁皇子を急襲・殺害しました。
 
その際、草壁皇子が
肌身離さず佩用していた
「黒作懸佩刀(=泰阿剣・草薙剣・坂家宝剣)」
の奪取(回収)には成功したのです。
 
これが「不比等へ渡った」という
伝来の真相でしょう。
 
しかし――
身に着けているはずの玉佩
「八坂瓊曲玉」が無い!
 
剣(泰阿剣)は草壁の身から
剥ぎ取って回収できたものの
もう一つの最重要レガリアである
「八坂瓊曲玉(八坂の神璽)」が
見当たらず、不比等らの手に
渡らなかったのです。
 
そこで彼らはどうしたと
思いますか?
 
なんと 事件からわずか
2ヶ月後の689年6月
「玉璽(曲玉)を除外し、鏡・剣の2種のみで即位可能とする」
という改ざん規定を盛り込んだ
『飞鳥浄御原令』を
緊急公布・強行したのです。
 
ところが、それだけではありません。
 
中国側の資料には
「神玺,读音是shén xǐ。意思是天子的玉玺之一。」
(神璽、読み方はshén xǐ。意味は天子の玉璽の一つ。)
とあり、「玉」以外はあり得ないのに
日本の神璽はなぜか
「神器のうち鏡と剣のこと」
「三種の神器のうち八尺瓊勾玉の称」
と、二つの意味を別々に登録しているのです。
 
これはあまりにも狡猾すぎます。
 
記録に「神璽鏡剣」とあっても
「神璽である鏡と剣」
「玉・鏡・剣の三種」と
どちらにも対応できるように
してあるのです。
 
なので、正確にどの段階で
3種に戻ったのか
戻ってないのかさえ
わかりにくくなっています。
 
718年(養老律令)というタイミングの不気味さ
 
精選版 日本国語大辞典 【神璽】の意味・読み・例文・類語 
  • 〘 名詞 〙天子の位を示すしるし。御璽。〔新唐書‐車服志〕 
  •  神器のうち鏡と剣。 [初出の実例]「凡盗二神璽一者絞、謂、践祚之日寿璽」(出典:律(718)賊盗) 
  •  三種の神器のうちの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の称。 [初出の実例]「二天子神璽宝剣符節鈴印等一、奉二於皇太子直曹一」(出典:続日本後紀‐嘉祥三年(850)三月己亥)
恐ろしいのが
この「鏡と剣を神璽と呼ぶ」
という用法が、718年(律の規定)
のものであるという点です。
 
718年といえば、まさに藤原不比等が
日本の歴史と法律を完全に
自分たちの都合の良いように書き換え
総仕上げを行っていた時期
(『古事記』完成の直後、『日本書紀』完成の2年前)
です。
 
「神璽」という単語に
二つの相反する定義を持たせる手法は
法制化の天才・藤原不比等が
律令という国家システムの中に
意図的に仕込んだ、最も狡猾な
「バックドア(抜け穴)」です。
 
そもそも漢字の「璽(じ)」は
中国において「玉(石)で
作られた天子の印」を指す言葉です。
 
金属である「鏡」や「剣」を
「璽」と呼ぶこと自体が
本来の漢字の用法からすれば
明らかなバグ(誤用)なのです。
 
にもかかわらず、日本の律令において
あえて「神璽鏡剣」という文字列を登録し
そこにダブルミーニングを持たせた。
 
この条文は、時の政権の
「ハードウェア(現物の玉)の所有状況」
に応じて、都合よく二通りに
コンパイル(解釈)できるよう
精緻に設計されています。
  • 【玉が手元にない時(2種モード)】「神璽鏡剣」=「神璽(たる)鏡と剣」。玉が手元になくとも、「鏡と剣の2つこそが王権の璽である」と強弁できる解釈。
  • 【玉を奪還している時(3種モード)】「神璽鏡剣」=「神璽(玉)と、鏡と、剣」。本来の中国語の用法通り「神璽=玉」とし、しれっと3つ揃っていると主張できる解釈。
この
「どちらとも読めるワイルドカード(変数)」
を法の中に仕込んでおくことで
政権は
「現物の玉を持っていなかった空白期間」
を歴史から完全に隠蔽できます。
 
後世の人間が記録を読んでも
「この時の『神璽』は鏡と剣を指しているのか?それとも玉を含めた3種なのか?」
が意図的なノイズによって
判別不能になるからです。
 
持統朝(689年)の『飛鳥浄御原令』で
「玉の紛失により2種にせざるを得なかった」
という政権の致命的なエラーを教訓に
「今後万が一、再び玉を紛失・強奪されるような事態が起きても、法的に一切矛盾が生じず、正統性を担保できる無敵の条文」
を完成させたのでしょう。
 
これによって、
「本当に文武天皇の時点で3種に戻ったのか」
「あるいは、戻っていないまま『神璽鏡剣』という言葉のマジックで3種あるように見せかけ続けた期間があるのではないか」
という決定的なファクトが
文字の煙に巻かれて
追えなくなってしまっています。
 
実物(ハード)の欠損を
法律と国語(ソフトと文字定義)を
バグらせることで完全にカバーする。
 
漢字の本来の語源すらねじ曲げて
システムの辻褄を合わせるこの手口。
 
まさに歴史のログを自らの手で
書き換えた者たちにしか構築できない
凄まじい情報操作です。
 

この「法令を書き換えて誤魔化した」

という苦々しい記憶が

約120年後(809年)の

「泰阿剣」の紛失時における

「藤原三守によるレプリカ(壺切御剣)の急造とすり替え」

という、より洗練された

ハッキング手法へと

進歩していくことになります。

 

(次回も引き続き、八尺瓊勾玉について迫ります)

 

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