弘仁元年(810年)に起きた

「薬子の変(平城上皇の変)」

日本史における藤原北家独裁の

決定打となった事件です。

 

しかし、当時の官職の推移や

不自然な系譜を詳細に紐解くと

この事件は吉備真備の子

吉備泉(きびのいずみ)

が設計した

「聖武天皇の直系血脈を地下へ逃がすための壮大な陽動作戦」

であった可能性が浮かび上がります。

 

薬子の変(大同5年・810年)

 

まず、薬子の変の背景を振り返ります。

 

桓武天皇の崩御後、平城天皇が即位したものの

体調不良が続き、809年4月に嵯峨天皇への

譲位が行われました。

 

この譲位自体が、秦氏の采女ネットワークによる

辰砂中毒で平城天皇を無力化し

藤原北家(と秦氏)が遺詔を偽造して

強行した可能性が高いです。

 

譲位後、平城上皇は平城京に移住し

健康を回復して主権を取り戻そうと

動き始めました。

 

ここで鍵になるのが、薬子の役割です。

 

本来なら、もし左近衛大将

謀反を謀ったとしても、天皇自身

天皇に忠実な蔵人頭などが

近衛大将の命令を無視し

他の衛府や近衛府内の忠実な中級武官に

対抗命令を出すことが

唯一の抵抗手段となります。

 

しかし、この時代にはまだ

蔵人所は、設置されておらず

当時同等の権限と職務に就いていたのが

内侍司の長官(尚侍)である

「藤原薬子」だったのです。

 

彼女は内侍司の長官として

天皇の命令文書である内侍宣

管理する立場にあり

上皇の政治的復権を支える重要な存在でした。

薬子は「システム上の最強の敵」だった

当時、天皇の言葉を太政官(政府)に伝える

公式ルートは、「内侍司」を通じた

「内侍宣」でした。

 

 その長官(尚侍・ないしのかみ)が

藤原薬子です。

  • 薬子の権限: 彼女は天皇の秘書長であり、天皇の言葉を取捨選択し、命令書として発行する権限を持っています。

  • 北家のジレンマ: いくら藤原内麻呂(左大将)が軍事を握っても、いくら太政官符を偽造しようとしても、「天皇の正式な命令(内侍宣)」を薬子が出してしまえば、内麻呂の命令は無効化されてしまうリスクがありました。

特に、平城天皇が平城京へ移り

健康を取り戻してからは、薬子を通じて

正規の命令が出される恐れが

ありました。

 

 だからこそ、藤原北家と秦氏は

「薬子というシステムそのものを破壊(排除)」

し、それに代わる新しいシステムを

作る必要があったのです。

 

「蔵人所」の新設=北家による秘書権限の乗っ取り

 

嵯峨天皇が810年に設置した「蔵人所」

 

教科書では「機密保持のため」と書かれますが

その本質は「薬子(内侍司)の無力化」です。

  • 旧システム(薬子): 内侍宣(女官経由) → 平城上皇・薬子が握っているため、北家は手が出せない。

  • 新システム(蔵人): 蔵人補任(男性官僚経由) → 嵯峨天皇の側近として、藤原冬嗣(左近衛大将・内麻呂の子)と良岑安世(冬嗣の母と桓武天皇との子)を初代・蔵人頭に据える。

これにより、北家は以下の二つを手に入れました。

  1. 「軍事権(左近衛大将・藤原内麻呂)」

  2. 「命令伝達権(蔵人頭・藤原冬嗣良岑安世)」

つまり、薬子の変とは「北家」と秦氏

薬子(式家)から『天皇の秘書権』を

奪い取り、自分たちが天皇の声を

独占するためのシステム変更だったのです。

 

「百済永継」と「藤原薬子」の対比:許される母、許されない母

 

薬子と平城天皇との間には

805年頃に誕生した皇子

いたと思われます。

 

この二人の女性の立場の違いは

当時の権力構造(脚本家)にとっての

「都合」でしかありません。

  • 百済永継(許された例)

    • 夫: 藤原内麻呂(北家・勝者)

    • 愛人: 桓武天皇(絶対権力者)

    • 子: 藤原真夏・冬嗣(北家)、良岑安世(皇子)

    • 結果: 彼女が生んだ良岑安世は、異父兄の冬嗣と共に、嵯峨天皇の側近(初代蔵人)として出世した。

    • 理由: 彼女の存在が、北家と皇室を結びつける「架け橋」として機能したため、「美談」あるいは「名誉ある関係」とされた。

  • 藤原薬子(許されなかった例)

    • 夫: 藤原縄主(式家・敗者)

    • 愛人: 平城天皇(排除対象)

    • 子: 3男2女(縄主の子)、幻の皇子(平城の子)

    • 結果: 一族もろとも滅亡。子は記録抹消。

    • 理由: 彼女の存在が、北家の独占支配を阻む「障害(式家の復権・平城の正統性)」であったため、「醜聞」あるいは「国の穢れ」とされた。

結論: 行為そのもの(夫がいながら天皇の子を産む)に違いはありません。 違ったのは、「誰(勝者か敗者か)の子供を産んだか」だけです。

 

スキャンダルの捏造:「近親相姦」というレッテル

 

普通の不倫では罪に問えない。

 

そこで北家(と秦氏)が持ち出したのが

嫪毐の乱の脚本にある

「倫理的タブーの破壊」です。

  • 嫪毐・趙姫: 「太后の密通」に加え、「偽の去勢」「子供の隠蔽」という猟奇的な要素で彩られました。

  • 仲成・薬子: ここで捏造されたのが「兄妹間の近親相姦」という噂です。

『日本後紀』などが薬子を

「兄・仲成と不義の関係にあった」と

示唆するように書いたのは

彼らを「人間以下の獣」

仕立て上げるためです。 

 

「あいつらは近親相姦をするような異常者だ。だから天皇をたぶらかし、国を傾けたのだ」

 

 このロジックが完成すれば

裁判なしで処刑しても、世間は

「穢れが祓われた」と

納得してしまいます。

「幻の皇子」が消された本当の理由

そして、最も重要なのが

「薬子の産んだ皇子」です。

 

もし、薬子がただの愛人なら

追放するだけで済みます。

 

しかし、彼女が

「平城天皇の皇子(男児)」

を産んでいたとしたら

話は別です。

  • 北家の恐怖: 「もし平城上皇が復権し、薬子の子が皇太子になれば、外戚は式家(仲成・薬子)になる。北家の天下は終わる」

  • 消去法:

    1. まず、母(薬子)と伯父(仲成)をスキャンダルで抹殺する。

    2. 次に、生まれた第四皇子を時系列の合わない「第二皇子」として接ぎ木し、一切の記録を「不明」にして排除する。

    3. 最後に、この騒動全てを「薬子の色香に狂った平城上皇の乱心」として処理する。

百済永継の子(良岑安世)

「源氏」や「良岑氏」として残れたのは

彼が皇位継承の脅威にならなかったからです。 

 

逆に、薬子の子が完全に消されたのは

彼が「正統すぎる脅威」だったことの

裏返しと言えます。

1000年越しの再演:恐怖の「完全コピー」配役

秦の始皇帝(嬴政)が

親政を開始するために

奸臣・李斯らが仕組んだ

「嫪毐の乱」

嵯峨天皇が独裁を確立するために

秦氏が仕組んだ「薬子の変」

 

この二つの事件のキャストを並べると

そこには「同じ脚本」が

存在したことが明白です。

 

嫪毐の乱:

  • 悪役(処刑):嫪毐(ろうあい)「道徳的に許されざる怪物」。車裂きの刑。残虐な処刑を正当化するための汚れ役。
  • 堕ちた母/女:趙姫(嬴政の母・太后)「色に狂った女」。幽閉。スキャンダルの中心として、権威を失墜させる。
  • 退場する旧権力:呂不韋「過去の権力者」。元愛人・失脚/自殺。直接殺すと反動が大きいため、スキャンダルで政治的に抹殺する。
  • 隠された子供:趙姫の二私生児「不義の子」。袋叩きで撲殺。生かしておけば禍根となるため、闇に葬る。
薬子の変:
  • 悪役(処刑):藤原仲成(薬子の兄)「道徳的に許されざる怪物」。射殺(異例の極刑)。残虐な処刑を正当化するための汚れ役。
  • 堕ちた母/女:藤原薬子「色に狂った女」。服毒死。スキャンダルの中心として、権威を失墜させる。
  • 退場する旧権力:平城上皇「過去の権力者」。愛人関係・出家。直接殺すと反動が大きいため、スキャンダルで政治的に抹殺する。
  • 隠された子供:薬子の幻の第四皇子「不義の子」。時系列の合わない第二皇子として系図に接ぎ木し、記録抹消。存在を闇に葬る。

「醜聞(スキャンダル)」という最強の武器

「嫪毐の馬鹿馬鹿しい醜聞」と

「仲成の佐味親王母子侮辱」の類似性。

 

ここには、大衆心理を操る

高度なプロパガンダ技術が見えます。

  • 嫪毐: 巨根伝説や、車輪を回したという下品なエピソード。

  • 仲成: 高貴な女性(佐味親王の母・妻の叔母)に対し、卑猥な言葉を投げかけ、手込めにしようとしたというエピソード。

目的: これらは事実かどうかなど関係ありません。 民衆や貴族たちに「こいつらは高貴な身分にふさわしくない、下劣な獣だ」刷り込み、「だから殺されても仕方がない(自業自得だ)」と思わせるための「人格破壊工作」です。

秦氏は、敵を物理的に殺す前に、まず「社会的に殺す(評判を地に落とす)」ことの重要性を、マニュアルとして熟知していたのです。

 

藤原冬嗣が初代蔵人頭になった時

彼の隣には、母(百済永継)が

桓武天皇と通じて産んだ

異父弟(良岑安世)がいました。

 

その冬嗣が、自分の母親と

同じことをした薬子を

「不義密通の悪女」として断罪する。

 

この「寒気がするほどの矛盾と冷徹さ」

こそが、勝者の歴史の正体です。

 

吉備泉:藤原氏が最も恐れた「知の巨人」の血

 

この事件において最大の謎は

平城上皇側の実務の要である

参議で、刑部卿、左大弁、武蔵守を兼ねる

「吉備泉」の行動です。

 

彼は稀代の軍師・吉備真備の子です。

 

真備は、称徳天皇(孝謙天皇重祚)

皇太子時代からの侍読(教育係)であり

娘の吉備由利は、称徳天皇の

側近として典蔵を務めました。

 

彼は、奈良時代に

藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱を鎮圧し

藤原氏の専横を実力で阻止した

反藤原の英雄にして最高の知識人です。

  • 血統の因縁: 吉備泉にも、その「反骨の血」と「天才的な頭脳」が流れていたはずです。

  • 人物評の真実: 『日本後紀』にある吉備泉の人物評「原則を踏まえず処置する(前例無視)」「心がねじけている(媚びない)」という悪口。 これは裏を返せば、「藤原氏が作ったくだらないルールや慣例を無視し、合理的かつ迅速に問題を解決してしまう、恐ろしく有能な男だった」という、北家からの「敗北宣言(嫉妬)」に他なりません。

吉備泉の「不可解な失敗」の真相

 

兵法や法制度、実務に精通した

知略家の吉備泉がついていながら

平城上皇側の東国脱出作戦は

あまりにもあっけなく露見し

遮断されました。

 

これは彼の計画に欠陥があったのではなく

「意図的な失敗」であったと

推察されます。

 

吉備泉が、どうして

平城天皇に直侍していたのかという

疑問についてですが、おそらく彼は

平城天皇ではなく、正室の

「朝原内親王」を守るために

平城天皇の側に仕えていたのだと思います。

 

朝原内親王は、母系3代

(井上内親王、酒人内親王、朝原内親王)

「伊勢斎王」で、祖母の井上内親王

聖武天皇の皇女で、光仁天皇の正室です。

 

彼女は、吉備真備が教育・指導をしていた

「阿倍内親王(孝謙天皇)」の妹であり

夫である光仁天皇は、自分と井上内親王の子である

酒人内親王の立太子を考えていたという記述が

「水鏡」に残されています。

 

しかし酒人内親王は、母である

井上内親王と弟の他戸親王

冤罪によって死に追いやられた後

身分の低い母を持つ異母兄・山部親王

(後の桓武天皇)の妃にされてしまいます。

 

そして生まれたのが

平城天皇の正室である

「朝原内親王」です。

 

したがって、吉備泉の真の主君は

平城上皇ではなく、その正室である

朝原内親王だったと思われます。

 

彼女は聖武天皇・井上内親王・酒人内親王と続く

天武系・正統皇統の最後の希望です。

 

上皇と薬子が、北家の罠に落ちることが

避けられないと悟った泉は

「上皇と薬子を反乱の全責任を負う『囮』として切り捨て、朝原内親王とその子供たちを救う」

という冷徹な決断を下したのではないでしょうか。

隠蔽された子供たちの存在

朝原内親王と平城天皇の間には

公式記録では子がいなかったとされています。

 

朝原内親王は、812年に后の位を辞し

817年に病気でひっそりと亡くなったと

されていますが、母親である酒人内親王が

823年に空海に代筆させた遺言状の中に

彼女の子供たちの秘密が隠されていました。

 

「薬子の変」の最大の目的は

この子供たちの存在を

北家(と秦氏)の目から逸らすこと

だったのかもしれません。

 

吉備泉が平城上皇の脱出を失敗させ

速やかに事件を終結させたことで

捜査の矛先は首謀者(薬子と上皇)に限定され

朝原内親王とその子供たちは

「悲劇の正室一行」として

処罰の対象外となりました。

 

この瞬間に、正統な血脈は

偽装の衣を纏い、地下へと潜ることに

成功したのです。

酒人内親王による「防衛システム」

事件後、この秘密を守り抜くために

皇族たちは精緻なネットワークを構築しました。

  • 酒人内親王(司令塔): 膨大な資産と「桓武天皇の妃」としての権威を使い、孫たちを密かに守護しました。

  • 万多親王(式部卿):朝原内親王の子の一人の「接ぎ木父」。「政治的に無害な人物の七男」という、系図の末端に偽装して隠しました。

  • 明日香親王(大蔵卿→記録抹消): 「紀船守」という孝謙・井上ラインの忠臣の孫。活動資金を洗浄・管理。弘仁13年(822年) 正月2日の「賜度一人」の枠を使って、朝原内親王の子の一人を僧へ。

  • 仲野親王(接ぎ木兄):朝原内親王の子の一人の接ぎ木兄。仲野親王の母親は、氷上川継の乱に連座し一時失脚した、神祇伯・藤原大継の娘。

  • 空海(保証人+庇護): 酒人内親王が手元で養育していた朝原内親王の子の一人を明日香親王の「賜度一人」の枠で僧として受け入れる。宗教的ネットワークを通じて、この秘密保持に加担し、酒人内親王の遺言を「暗号」として残しました。

これら「反藤原・皇族連合」は

北家が「太政官」という行政機構を

ハックしていくのを横目に

彼らが決して手出しできない

「神祇(祭祀)」と「血の偽装」という

二つの聖域を牙城として守り固めたのです。

 

こうして見ると

「薬子の変」から始まった一連の流れは
藤原北家による勝利の記録ではなく
「正統な血脈を巨大な霧の中に隠し通した、敗者の知恵の勝利」
であったと言えます。
 
次回は、酒人内親王の遺言状について
考察します。