【はじめに】平国香とは何者か? — 一般的な「史実」の姿

まず、私たちが教科書や

一般的な歴史本で目にする

「平国香」のプロフィールを

確認しておきたいと思います。

  • 平氏の長男: 桓武天皇の血を引く「平高望」の長男。

  • 名門の祖: 後の「伊勢平氏(平清盛ら)」の直系先祖。

  • 悲劇の被害者: 承平5年(935年)、甥である平将門に襲撃され、館と共に焼け死んだ「悲劇の伯父」。

  • 正義の象徴: 彼の死をきっかけに、息子の貞盛が父の仇討ちとして将門を討伐し、「将門の乱」を鎮圧する。

つまり、公式の歴史において国香は

「暴徒・将門に殺された、平氏嫡流の正統な長男」

として、揺るぎない地位を

与えられています。

 

しかし、その実態を

当時の生没年や周囲の人間関係から

緻密に検証していくと

この「国香」という人物像は

驚くほど不自然で、実体のない

「歴史のキメラ(合成怪物)」であることが

浮かび上がってくるのです。

1. 概論:歴史が生んだ「必要悪」としての長男

「平国香」とは、実在したとしても

極めて影の薄い人物、あるいは

完全な架空の存在であり、その実態は

「将門の父・良将(良望)の輝かしい経歴」

と「叔父・良正らの在地基盤」を

パッチワークのように縫い合わせて

作られた「キメラ(合成人間)」

であると考えられます。

 

彼が歴史の表舞台に登場し

高望王の「長男」として

固定された理由はただ一つ。

 

「本宗家(将門)を裏切り、滅ぼした分家(貞盛流)が、自らの正統性を主張するために必要だったから」

です。

2. 人格の解剖:国香を構成する「他人のパーツ」

国香のプロフィールを分解すると

彼固有の要素は何一つ残らず

すべて他者からの「流用」

であることが判明します。

A. 生没年と地位の流用(被害者からの剥ぎ取り)

  • 生没年(873年~935年): これは将門の父・良将(良望)の推定生没年と完全に一致します。

  • 官職「鎮守府将軍」: 国香には武功の記録が皆無であるにもかかわらず、後世の系図でこの肩書きが付与されています。これは、実際に奥州と対峙し、東国の軍事トップであった良将(良望=将門の父)のキャリアを盗用したものです。

  • 母「茂世王の娘」: 表向きの史実では、国香は高望の長男であり、母は、藤原良方の娘とされています。『系図纂要』で高望の正室とされる「茂世王の娘」は、仲野親王の孫娘ですが、実際は正躬王(朝原内親王の子=天武ライン)の孫娘であった可能性が高く、本来は「望」の字を継承する良望=良将(将門の父)の母であるはずです。しかし、国香をこの母から生まれたことにすることで、彼を「嫡流」に見せかけました。

B. 在地基盤の流用(加害者側の事情)

  • 官職「常陸大掾」と本拠地「石田」: 国香は源護の娘を妻とし、その職を譲られたとされます。しかし、源護と深く結びつき、その娘を妻に娶っていたのは、妾腹の良正と良兼です。

  • 結論: 国香というキャラクターは、「良望(将門の父)の高貴な血統・地位」と「良正らの源氏コネクション・地盤」を悪魔合体させ、理想的な「初代当主」として造形されたキメラであると考えられます。

3. 「935年の石田館焼き討ち」の真実
 

史実では、承平5年(935年)2月

将門が源護の子ら(扶・隆・繁)と

戦った際、巻き添えで叔父の国香が

焼死したとされています。

 

しかし、この事件の深層は

全く別のものに見えます。

  • 真の犠牲者は誰か: この年に死んだのは、国香ではなく、将門の父・良将(良望)その人であった可能性が高いです。

  • クーデターの構図:

    1. 良将(良望=本宗家)が930年頃から都の支援者喪失で弱体化していく。(930年卒・崩御→平希世・平中興、醍醐天皇、敦慶親王、931年崩御→宇多法皇(宇多天皇)など)

    2. 高望の晩年に誕生した、妾腹のコンプレックスを持つ弟たち(良正・良兼)が、新興勢力・源護と結託し、本宗家の乗っ取りを画策。

    3. 935年、彼らは良望(=将門の父)を襲撃(暗殺、あるいは館への放火)し、殺害した。

  • 「被害者と加害者の入れ替え」: 将門は父を殺された復讐として立ち上がりました。しかし、朝廷の後ろ盾により勝者となった貞盛らは、「殺されたのは将門の父ではなく、高望の長男・国香であり、将門は伯父殺しの逆賊だ」というストーリーを捏造。 これにより、「父の無念を晴らす復讐戦」が「身内殺しの反乱」へと書き換えられたのです。

4. 貞盛の正体と伊勢平氏の起源

「国香の子」とされる平貞盛。

 

彼こそがこの改竄の主犯

あるいは最大の受益者です。

  • 貞盛=良正の実子説: 良正が真っ先に源護に加勢し、将門ら平一族と激しく争ったこと、そして良正に後継者の記録がないことから、貞盛は本来、妾腹の良正の子であったと考えられます。

  • 系図のロンダリング: 貞盛流が中央で出世するためには、「妾腹の子」という出自は邪魔です。そこで、架空の正統な長男「国香」を父として設定し、自分を「高望王の嫡孫」へと格上げしました。

  • 伊勢平氏の虚構性: つまり、清盛に至る伊勢平氏の繁栄は、「良望(将門の父)の威光を盗み、良正(裏切りの叔父)の血を引く者たち」が作り上げた、砂上の楼閣だったのです。しかしその伊勢平氏の系譜さえも、本来上総にあった伊勢平氏(上総守護・足利貞氏の守護代「伊勢弾正忠宗継」の家系)を盗用した可能性が高いのです。

捏造というのは、往々にして
「詰め」が甘いものです。
 
自分(良正)が本宗家を乗っ取り
兄・良望(=将門の父)の
アイデンティティを「国香キメラ」に
移植してしまった結果
空白になった「将門の父」の名前に
子供たちの通字「将」を安易に
充ててしまったことで
自分の名前・良正(ヨシマサ)と
同じ読みになってしまった……。
 
 歴史の闇に葬ったつもりが
「偽造犯の署名(シグネチャー)」を
うっかり残してしまったような
愚かさを感じます。
 

【新視点】「平プロジェクト(889年)」と将門親王の誕生

 

国香というダミーが必要だった

最大の理由は、将門の出生に隠された

「皇室の極秘計画」を隠蔽するため

だったと考えられます。

  • 寛平元年(889年)の奇跡: 公式な記録では、将門の生年は903年とされていますが、宮内庁書陵部蔵の史料『応仁記』には「己酉(889年)生まれ」と記されています。実はこの889年という年は、宇多天皇の勅命によって、将門の父や祖父たちに「平」の姓が与えられた記念すべき年です。
  • 年下の叔父:国香の長子とされる貞盛の生年(917年)から、父親は890年代後半生まれだったと推測できます。国香が実在しないキメラだとすると、貞盛の本当の父と思われる良正は、高望の臣籍降下後の子で、高望が60歳間際の超高齢で設けた子であり、将門より10歳近く年下の叔父であった可能性が高いです。
  • 寛平元年のシンクロニシティ: 将門が誕生したとされる寛平元年(889年)。この年の5月13日、宇多天皇の勅命で、高望王を含む5名に対し、「平朝臣」の姓を与え臣籍降下させました。

  • 宇多天皇の意図と「将門親王」: 宇多天皇自身、一度は臣下(源氏)に下りながら皇籍復帰して即位した異例の経歴を持ち、藤原氏の専横を激しく嫌っていました。 『応仁記』などの一部史料に「将門は889年生まれ」とあり、彼を「将門平親王」と記すのは、この賜姓の際に、生まれて間もない将門が「東国を統治する親王」としての「親王宣下」を受けていた可能性が考えられます。

  • 「5人のプロジェクトメンバー」: この時、姓(と親王宣下)を賜ったのは高望、良望(良将)、将門、良文(将門の娘・春姫の舅)、真樹(娘が将門の妻=君の御前)という、後に将門を支える鉄の結束を誇る5名だったと推測されます。 ここには「国香」も「貞盛」も含まれていません。つまり、将門こそが宇多天皇から東国の未来を託された「平プロジェクト」の正当な「王」だったのです。

宇多天皇と高望王の関係
 
『系図纂要』によりますと
高望王の父・高見王の正室は
仲野親王の娘となっています。
 
仲野親王には二人の娘がいて
一人は、宇多天皇の母である
「班子女王」です。
 
もう一人の娘「宜子女王」
伊勢斎宮でしたが
833年の退下以降の消息が
不明となっています。
 
このことから、839年生まれの
高望王の母は、おそらく
宜子女王であったと思われます。
 
したがって、宇多天皇の母と
高望王の母は「姉妹」であり
彼らは従兄弟同士であるということです。
 
将門の生年の操作
 

藤原氏や秦氏、偽平氏嫡流にとって

将門が、高望流平氏本宗家を継ぐ

正統な跡取りであり、乱の当時

すでに50歳という年齢だったことと

「帝の密命を帯びた正統な親王」

であることは、非常に不都合でした。

 

そのため、彼の生年を

903年にずらして

宇多天皇との接点を断ち切り

さらに架空の「長男・国香」を

系図の最上位に置くことで

将門を「分家の暴徒」という

矮小な存在に閉じ込めたのです。

  • 「37歳死」というレッテル: 公式記録(903年生〜940年没)では、将門は37歳の若さで亡くなったことになります。しかし、これがもし889年生まれであれば、彼は51。父・良将(良望)から「鎮守府将軍」の地盤を引き継ぎ、酸いも甘いも噛み分けた、極めて知的な熟練の指導者であったことになります。
  • ダミー兄弟(将持・将弘)の役割: 将門には「将持」「将弘」という二人の兄がいたと系図には記されています。しかし、この二人は名前以外に何の活動記録もありません。彼らは、「将門は長男ではない(=本宗家の嫡男ではない)」と見せかけ、さらに生年を後にずらすための「時間稼ぎ」として系図に挿入された実体のないダミーである可能性が濃厚です。

5. 総括:「国香」とは何だったのか

 

平国香とは、実在の人物というよりは

「システム上のバグを修正するための

パッチ(当て布)」です。

  • 宇多天皇と将門の「平プロジェクト(889年)」を抹消したい藤原北家と秦氏。

  • 本宗家を裏切った汚名を消したい、妾腹の貞盛・良正ライン

  • 在地の支配権を握りたい源・藤原系勢力。

これら三者の利害が一致した時

「高望王の長男で、鎮守府将軍で、源護の娘婿で、将門に殺された悲劇の英雄」

という、矛盾だらけのスーパーマン

「平国香」が誕生しました。

 

藤原北家と秦氏は

50歳を超える知将が

「宇多天皇の遺志」を継いで

立ち上がることを恐れました。

 

だからこそ、彼を

「伯父を殺して暴走した30代の若者」

に仕立て上げるため、生年を操作し

その隙間に架空の兄弟や「国香」という

偽の長男を詰め込んだのです。

 

51歳で在地勢力を率いて

決起した将門の姿は

まさに「天武天皇」そのものです。

 

もし彼が勝利していれば

藤原氏による「虚構の統治」は

終わりを告げ、東国を拠点とした

「真に自立した日本」が

訪れていたのかもしれません。

 

彼の敗北によって

この「入れ替えのメソッド」は

完成され、その後の日本史を

縛り続けることになりました。