Guardian…守護者、保護者、後見人。





唯一人の存在を、すべての悪しき事象から、守る者。

















電気ポットの注ぎ口から、白い湯気がひゅうと吹きだしている。
“教授”と書かれたラベルが貼ってある瓶から中挽きの豆をスプーンですくって、ペーパーにさらさらと落とした。



こぼすとあとで持ち主からちくりと小言をいただくので、細心の注意を払う。
教授はこういうことを男子学生に頼まずに毎回私にさせるのだけれど、それもわかる気がした。
以前後輩の男の子にお願いした時、一体どれだけの豆が無駄になったことか。



デスクからはみ出した椅子を上手に避けながらコーヒーを運ぶと、教授はパソコンの液晶から目を離さないまま「いつもすまないね」と小さく呟いた。
一日の最後の役割を終えて、無機質な白い壁に目を遣ると、時計の針は十七時をさしている。
窓の外にはもう薄闇が広がっていて、食堂前の広場で他愛もない話をしている学生の声が聞こえた。

 


「ユイちゃん、おはよ」



コートを羽織ってバッグを手に取ったところで耳に飛び込んできた声。



「瀬川くん、おはよう」
「これから実験?」

 


後輩の瀬川くんはいつも、バイトとサークルが終わるこの時間に研究室へ顔を出す。
もちろん今は朝ではないけれど、その日初めて会った人間には何時でもおはようと挨拶をするのが彼の持論だった。

 


「そう。夜通し機械とにらめっこ」

 


明るい色の短髪の下で大きな目をきらきらと輝かせて、瀬川くんはじゃあまた明日と手をひらひらさせながら、白衣とパソコンを抱えて部屋を出て行く。
私も後に続くように、お先に失礼しますと教授に声をかけてドアを閉めた。

 



***


たっぷりとした紺色のスヌードをぐるりと巻きつける。そろそろ自転車もつらい季節になってきたなと思いながら、サドルに跨った。
週に三日。大学から自転車で五分のスーパーに寄って夕食用の食材を買うのは、もうすっかり習慣になってしまった。



栄養のバランスを考えて、野菜も肉も魚も、まんべんなくかごへ入れていく。
きちんと食事をして、体調をしっかりと管理する。私が一人で勝手に守っている約束のようなものだ。

風邪をひいたり、熱を出したりすると、一緒に住んでくれている人に迷惑をかけてしまうから。

 



買い物を終えて自宅に戻ると、さっそくキッチンに立つ。平日の夕食は私が作ることになっていて、これは私達の間での見えない決まり事だ。



ざくざくと切った野菜たちを、鮮やかなオレンジ色の鍋で蒸していく。その間に、簡単なドレッシングを作る。
粉をまぶした白身の魚は、バターで焼く。
私たちは普段の夕食で炭水化物を摂らないので、代わりに具だくさんのミネストローネを用意した。

 


夕食の支度を終えてエプロンをはずすと、予想通り、玄関のチャイムが鳴る。
がちゃり、といういつもどおりの音に私は安堵する。そして少しだけ気持ちが上向きになる。



「おかえりなさい。ごはんできてるよ」



一日の心情をグラフで表すならば、笑顔で彼を迎えるこの瞬間が、きっと頂点に違いない。



「ただいま」

「いい匂いやね、唯」



そう言って微笑みかけてくれる、私の大切な人。

秋斉さんとの、いつもどおりの会話。

 

 

 

 

***

 

 




秋斉さんは大人だ。
私も成人はしているけれど、秋斉さんはもっともっと大人。

 

 

 

 




「仕事、終わらなかったの?」


 

夕食のあと、秋斉さんはパソコンと資料を交互に睨んでいた。
食器を片づけてからコーヒーを淹れて、マグカップをダイニングテーブルにことんと置く。
私はお砂糖とミルクをひとつずつ落とすけれど、彼のカップは真っ黒のままだ。

 


「切りのいいところで終わらんかったんや」

 


黒縁のパソコン用眼鏡の向こうにちょっとだけ眉根を寄せて、秋斉さんは溜息を吐く。

 


「忙しいんだったら無理して早く帰ってこなくてもいいのに」

 


言うと、彼は苦笑いを浮かべて私の頭をくしゃっと撫でた。

 


「夕食はなるべく一緒にっていう約束やろ?」

 


「そんなの……もう十年も前の約束だし……」

 


「何年経っても約束は約束や」

 


「………」

 


秋斉さんは、私との約束を決して破らない。それはきっと、約束を守ることが、お互いの立ち位置を均衡に保つための必要条件だからだ。

 


「………私もここでレポート書こうかな」

 


眼鏡の奥の綺麗な瞳が細められる。テーブルに広げられた書類を片付けて、秋斉さんは小さく手招きをした。

 


「わからないところがあったら、聞いてもいい?」

 


「ええよ。答えられる範囲なら教えたるさかい」

 


彼の笑みが深まったのを見て、私はまた、安堵の息をこぼした。

 

 




***





十年前。
一緒に暮らし始めた頃の私たちの関係は、今よりもずっと不自然だった。
秋斉さんは国家試験に合格して転職したばかりで、私は小学校を卒業する少し前だったと思う。




穏やかで落ち着いた性格の彼はいつも年より大人に見られていて、傍から見ると本当の親子のようだとよく言われた。
確かに、私たちは顔立ちが少し似ていた。まあ、私なんて比べ物にならないほど秋斉さんは格好いいけれど。
顔が似ていたのは、秋斉さんのお父さんと私の父が兄弟だからだろう。

 



授業参観は私にとって幸せな時間だった。
友達が親に来ないでほしいと頼んでいる中、私は秋斉さんをみんなに自慢したくてしかたがなかった。



だって彼は、他のどの友達のお父さんよりも素敵な男の人だったから。
担任の先生ですら、見惚れてしまうほど。

 

 

あの頃は親子に見えていた私たちだけれど。
今はどちらかというと、如何わしい関係を疑われる可能性の方が高い。

 


でも、そんなことは決してない。
秋斉さんも私もきちんと線引きをして生活しているし、秋斉さんが私にそういう感情を抱くことは絶対にない。
二人とも、今の関係に心地よさを感じている。壊してしまうことだけは避けたい。

 

 

 








レポートを書き終えて、お風呂に入った後も、秋斉さんはパソコンの画面と向き合っていた。
キッチンでコップ一杯の水を飲み干して、おやすみなさいと声をかけると。
彼はふわりと微笑んで、おやすみと答えてくれた。

 



この笑顔のおかげでまた明日頑張ろうと思える私は、つくづく現金な女だ。

 








2 へ続く。