※ぬるいですが、少々流血表現があります。閲覧注意。
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腰に差す二本の得物は、柄に綿雪を残したまま。
その身を包んで揺らめくは、凄烈な情念の炎。
眼光を緩めぬまま、秋斉は部屋をぐるりと見渡した。
囲炉裏の奥に横たわる茅乃は、目を閉じている。
眠っているだけなのか、何か危害を加えられているのか、秋斉の立ち位置からではわからない。
ぬかるんだ山道を引き摺って来られたのだろう。裾は泥まみれで、腕や顔にもその汚れは及んでいた。
今すぐにでも駆け寄ってやりたい。
しかし、茅乃の前に立つ二人の男が、容易くそれを許すはずがなかった。
「杉村」
「茅乃に何を吹き込んだ」
予想はしていたが、この男に凄みの類は通用しないのだろう。
ましてや、秋斉の差し貫くような眼差しに、恍惚にも似た笑みを浮かべている。
「私は本当の事を申し上げたまで」
「秋斉様と慶喜様の進むべき道に、貴女は邪魔なだけだと教えて差し上げたのですが」
にやりと、唇の両端が引き上がる。
首を小さく傾げながら、杉村は心底残念そうな声で語った。
「私は、何度も進言致しました」
「徳川を再興するためにも、力のある家との良縁をお引き受けくださいと」
「慶徳様の御厚意を無下にしてはなりません、と」
「お前の所業は全て慶徳の意向だと言うのか」
「そう捉えていただいてよろしいかと。私の主は慶徳様でございますので」
印象は柔和であるものの、池田慶徳は物事の大筋を見誤るような男ではない。
父を同じくするとは言え、自分より身分の低い秋斉の縁談をまとめるために、
このように無謀な行動を許すというのは、あまりにも浅慮なのではないか。
真偽を図るつもりで秋斉がもう一度睨め付けると、
向き直った杉村が、くすりと笑んだ。
「貴方のその眼を、直に拝見したことがあるのですよ」
言いながら、一歩二歩と摺足で下がっていく。
茅乃の傍らに腰を落とし、脇をぐっと掴んで抱え込むと、
笑みを消す事なく鯉口を切った。
「京に赴いていた頃、夜更けに一人通りを歩く姿を偶然お見かけしまして」
見せつけるかの如く、目を瞑る茅乃の首元へ鋭いものを突きつける。
「茅……」
近付けばすぐにでも首を落とす。杉村の視線はそう告げていた。
「不逞の輩を数人、小路に誘い込んだ貴方は、脇差のみで皆を斬り伏せてしまった」
「息が上がることもなく、着物を乱すこともなく。何事もなかったかのように平然と立つその様に」
「………私は目を奪われたのです」
秋斉を見つめる双眼は、眩しいものを見るように細められている。
「あの頃の貴方は、徳川の為に生きるという役目をしっかりと自覚なさっていた。道を誤ることなく歩んでおられた」
「………その御姿はまさに、私の鏡鑑だった」
急激に温度の下がった視線が、鍔元に落ちた。
「それをこのような女に邪魔立てされるなど、あってはならないこと」
青白い首にぎらつく刃が触れる。
泥まみれの衿に新たな染みを作るのは、一筋の赤い流れ。
「やめろ!!」
手の動きを一瞬止めて、杉村はほくそ笑んだ。
「貴方の為だというのに」
「じわじわと命の灯が消えていく様を見ているよりは、一思いに死なせてあげたほうがよいと思うのですが」
「何を……」
「斬らずとも、すぐ死にますよ、この女は」
「征一郎は父親以上に腕が良い。飲んだ者が命を存えたことは一度も無いのです」
昇りかけていた血が、さっと引いていく。
「……毒を飲ませたのか」
怒りと焦り、喪失への恐怖が胸にせり上がる。
茅乃が、逝ってしまう……?
「もうじき半日経ちます」
「四肢はもう動かない。貴方の声も聞こえていないでしょう」
「息はまだありますが、それもすぐに止まります」
………信じない。信じてやるものか。
口元が絶望で歪みそうになるのを、秋斉は必死で堪えた。
「女子供を斬るのはあまり気が進まないのですが」
「せっかく貴方がこの場に居るのです、だらだらと時間をかける必要もない」
ごつごつとした無機質な手に抱え直されて、傷つけられた首筋がよりいっそう露になる。
「女の命が果ててしまえば、貴方は解き放たれる」
「一分の隙もない“徳川秋斉”様に戻ることが出来るのです」
揺らぐ刃紋は、顎下の一点で止まり、
先刻流れた血の筋も乾かぬうちに、柔らかな首に白刃があてがわれる。
「茅乃……っ!!」
時の流れが、ひどく緩やかに感じられた。
土間の敲き土を勢いよく踏み出し、一瞬の内に囲炉裏端へ駆けあがる。
刃は一層首の白肌に食い込み、真紅に染め上がる光景を易々と想像させた。
決して、死なせない
ぐしゃりという音と共に、
腰から鞘ごと跳ね上げた刀身が、茅乃の命を脅かしていた右腕の骨を砕く。
衝撃と痛みに反応したのか、抱えていた左手が茅乃を解放したのを見受けると、
二人の間に体を入れこませ、こじ開けるように隙間を作り出した。
細身を抱き止め、蒼白な顔に手をかざせば、微かに風を感じる。
大丈夫、茅乃は生きている。
二人の背後で、杉村は両膝をついた。
利き腕はぶらりと垂れさがり、落ちた刀を左手で拾おうと畳に触れた刹那。
耳に飛び込んでくるものは、秋斉のよく知る音。
刃が肉を貫き、血の管を寸断する音。
………人が、死に引きずり込まれる音。
『…………征……』
くぐもった呻き声が辺りに満つ。
目の前で、二人の男が崩れ落ちるように畳に伏した。
『………ぐ……』
『……おまえ………』
腹を貫いていたのは、合口。
前後不覚のまま拾い上げた得物を、杉村が振り下ろしたのだろうか。
征一郎の胸部は深い刀傷で濡れていた。
「元より……あんたを刺して俺も自害するつもりだったんだ…」
「………手間が…省けた……」
長身の杉村に覆い被さり、征一郎は肩を大きく上下させる。
「その数を覚えていないほど…命を奪った」
「俺もあんたも………報いは当然…受けるべきだ…」
精一杯伸ばした腕が杉村の腹から合口を引き抜くと、畳が一瞬で血に染りゆく。
傷口から次から次へと流れ出る赤い流体を物ともせず。
息を荒げてずるずると這いながら、征一郎はようやく壁際に辿り着いた。
焦点の定まらぬ瞳が秋斉を見つめている。
夥しい血の様を鑑みれば、命はそう長く持たないはずだ。
視線に呼び寄せられたのを感じて、
茅乃を静かに横たえた後、秋斉は征一郎の傍へ寄った。
「……水を…飲ませるんや」
「できるだけ多く……間を置かずに……」
聞きなれた訛が耳に響く。
……死を前にして、思いがけず言葉が戻ったのだろうか。
「何を……呆けた顔をしとる…」
「京におった方が長いさかい……元よりこっちのが慣れとる。あっちは作りもん……」
呟いた口から、時折ごぼごぼと血が溢れる。
傷からの出血なのか病の残滓なのかもはやわからないほど、胸は一面血に塗れていた。
「……水?」
「水を飲めば毒が薄くなるのか」
「……いや…杉村が茅乃に飲ませたんは…毒やない」
「………ただの痺れ薬や」
「……一体どういうことだ」
ゆらりと首が傾く。
視線の先にいるのは、茅乃。
「……さきと遊んどる時の笑てる顔は……ほんに、やさしゅうて……」
「…あんなん見とったら……毒なんぞ……作れるわけがない……」
「………ここに来てからはいっぺんも作ってへん。痺れ薬を渡して……ずうっと杉村を謀っとった……」
茅乃の笑顔を思い浮かべているのだろうか。
吐血の合間、掠れた声を絞り出すその表情は、柔らかい。
「痺れ薬言うても…元は曼珠沙華の毒や。せやけど…水で薄うなる」
「飲み続ければ……手足の強張りは三日で消える…声は…一晩も過ぎれば出るようになるはずや」
震える指が、土間を差す。手の平をぬるつかせる鮮血がだらだらと腕を伝って、肘からぼたりと落ちた。
「大事なもんやて、茅乃が抱えてきはった……」
小さな風呂敷包みが、三和土にころんと転がっている。
おそらく、押入れから消えていた“かめら”だろう。
「一つ、頼みがある」
「この小屋と……寺を燃してくれへんか」
「何故……」
「毒も薬も……ぜえんぶ火にくべて…」
「そのまんま、地獄へ持って行くさかい……」
「…………なあんも、残したない」
目を開けているのすら辛いのだろう。
瞼を下ろしたまま、口を半分程開いてぼそぼそと言葉を吐きだした。
「………わかった、望み通りにしたる」
「茅乃に…何か言うて欲しいことはあるか」
はは、そうやなあ…
ほんなら………
まるで幸福な夢を見ているように、頬を緩めた顔は穏やかで。
最期の言葉を聞き届けた秋斉は、征一郎の頭にそっと手を置いた。
長い睫毛をたたえた瞳はもう、何をも映さない。
形の良い薄い唇が言葉を紡ぐことは二度とない。
自分と同じ、くせのある短い黒髪をくしゃりと撫でて。
秋斉は小さく微笑んだ。
「おおきに」
「茅乃を守ってくれて、おおきに」
※鏡鑑…手本、理想