私が鍼灸の資格を取ったのは、40代半ばを過ぎてからです。
カナダの鍼灸の学校に通い、カナダの州立試験を受けました。(永住権か市民権保持者のみ試験を受けることが出来ます。)
若い頃は勉強が大嫌いでした。
大嫌いというよりも、好き嫌いが激しくて両極端で、
好きな科目はのめり込んで勉強しましたが、興味のない科目は、授業中先生の目の前に座っていても居眠りが出来るほど無関心で、試験も一夜漬けでした。
鍼灸に関しても、【年を取ってからも出来る仕事】という利点を見据え、思い切って学校に通う決心をしたのですが、ものすごく興味があった訳ではなかったため、最初のうちは足が重く、「行くのが面倒くさい・・・」と思っていました。
なにしろ英語でさえ、当時そこまで真剣に勉強などしていなく、適当に勢いで会話をしていた私です。
その状態で英語で鍼灸や解剖学の用語や東洋医学の表現を理解するのは至難であり、
周りのカナダ人や小さい頃から移民をしている生徒達とも、この状況を共有できる子がいなかったため、表面上では他の学生と仲良くしていたものの、孤独を感じていました。
毎週行われる小テスト、毎月行われる中間、期末テストなど、試験、試験の毎日。
そのうえ学校に行く傍ら、授業料を払うために整体の個人事業も続けていたストレスがたたったのか、
そのうち強迫観念になっていきました。
「勉強しなくちゃ、勉強しなくちゃ・・・」と追い込まれる日々。
休みの日にたまに近くの海に行った時でさえ、「こんな事してていいのか?勉強しなくちゃ・・・」と不安になったものです。
今考えると、ちょっと精神的にダメージを受けていた気がします。
そんな時、楽しかったのが実技。
1年間学校に併設された学生クリニックで、実際に患者さんに対して鍼灸を行うのですが、それが楽しくて楽しくて!
その実技の授業があったお陰で卒業出来たのかもしれないと思ったりします。
私は感覚派、体験型なので、実技をすることにより、講義で習う理論の授業が頭に入ってくるようになり、その仕組が理解できるようになると、鍼灸自体が面白くてたまらなくなりました。
ところが、無事学校を卒業し、いざ州立試験(カナダは州により法律が違うため、国家資格ではなく州立試験となります。)の勉強を開始すると、これがまたどう勉強していいのかさっぱり分からず、またスランプに陥りました。
カナダでは鍼灸の模擬試験集などという資格試験用のテキストはなく、
また過去問も存在しません。
学校でも、どういう問題がでるのかという予測問題をだしてはくれませんでした。
(少し出してくれましたが、結局資格試験にはほぼ役に立ちませんでした。)
それらしいテキストも買いましたが、こちらも当てには出来ない代物。(これも試験を受けてみて分かったことです。)
カナダ人の生徒に勉強の仕方を聞いても、やはりさっぱり分からないようで、
ある頭の良い友人は、「Maciociaのテキストを10回くらい読んで頭に叩き込むことをしている。」と言っていました。
1320ページのハードカバーの分厚いテキストです。
私もその本を何度か読みましたが、それでは足りないし不安だったため、
とりあえず役にも立たないだろう問題集をひたすら繰り返し何冊か解いていました。
その時にしていたのが、近くにある図書館に行くことでした。
BCITという工学系の大学にある図書館ですが、そこでは個室型の(仕切りがつけられただけのものですが)勉強机がありました。
その図書館では私語は禁止されていないため、学生達が大きな声で各々会話をしています。
結構な音量で話すため、うるさくてイライラするのですが、それを逆手にとり利用することにしたのです。
そのうるさい状態の場所で試験勉強をし、どれだけ集中し、どれだけ頭に入るのか?
自分自身で実験をすることにしました。
そして段々その状態に慣れていくと、最初の頃よりずっと集中力がついていることに気が付きます。
この状態に慣れれば、大人数の中で行われる資格試験でも、集中して落ち着いて出来るのではないかと思ったのです。
この読みは当たったようで、資格試験の時のシーンとした雰囲気は、あのうるさい図書館の中での勉強時よりずっと快適に感じ、心が落ち着きました。
さて、ある程度年齢がいってから350万以上も使い、こんなに勉強し苦労して取得した資格免許ですが、
国際免許ではないため、カナダの資格は日本では使えません。
せめて幾つかの単位を移行できればいいのに...(仮にそうなっても、この年でもう一度学校に通う気力とお金の余力があるかは疑問ですが。)
結局、あの苦しかった日々は何だったんだろう・・・と時々ため息がでます。
資格、資格と掲げながら、国をまたげば何の意味も無くなってしまう儚い代物。
ただの紙切れである資格証書。
それでも、習ったことは今でも仕事に活かすことが出来ているのかもしれませんね?