
以前にも書いたが、例えばデレク&ドミノスの「いとしのレイラ」の後半インストルメンタルはなぜ必要なのかと思っていたのに、最近ここがあるからこそと変わり始めた、あるいはここに意味があることに気づいた。それはシカゴの「素直になれなくて」という曲にも言える。これを聴いた当初、バラードから急激に“get away”というメドレーが始まり、雰囲気がぶち壊しとがっかりしていたが、そこを音楽に詳しい学生時代の大学教授に指摘したら、「シカゴというのは本当はブラスロックバンドだから、この“get away”の部分がないとシカゴのアイデンティティーが何もなくなる」と教えられ、ものすごく納得した思い出がある。つまりはシカゴというのは以前アップしたシカゴトランジットオーソリティーが始まりであり、ブラスロックのいわば始祖である。だから始めに「素直になれなくて」からシカゴを知ってしまった場合この“get away”の部分は違和感が残るが、古くからシカゴを知っている人たちにとっては「素直になれなくて」自体が違和感であり、“get away”の部分が本来のシカゴなのである。これをもし「素直になれなくて」だけを取り出してしまえば、この曲は「シカゴ」名義の曲ではなく「ピーターセテラ」名義の曲になる。したがって、ときおり出ているシカゴの編集盤に載っている「素直になれなくて」のみのバージョンは、シカゴというバンドを無視してしまっている。ビジネスのみを考えたバージョンであって彼らに対してリスペクトがないことになる。と、過激になってしまったが、こんな風に感じた時代があっただけで、無駄と思える部分が実はそうではなかったというのが結論である。1982年。