無意識でなんとなくやっていることを意識に上げるのは瞑想そのものです。

普段リアリティを感じている物理世界の臨場感から『ふっ』と離れた時

より統合的で高度な視点からの身体操作や、概念の操作(抽象空間での運動)がしやすい意識状態になります。

その状態を変性意識といいます。



瞑想をする時いきなり高度な瞑想をすると、

どうしても焦点がぼやけてしまいがちになる気がします。

基礎体力やテクニックがない人がいきなり高度な身体運動をしようとしても、

そもそも出来なかったりならまだマシなほうで、身体を壊したり、ヘンな癖がついて伸び悩んだりするようなものです。



でも前回奥義から始めようっていったじゃん!とすぐ突っ込まれそうですが。

ぜーんぜん、矛盾しません。 キコウシ、ウソ、ツカナイ。

実際高度な技術や方法論から入ることが有効に切り口な場合があります。



これは抽象度の概念で完全に説明できます。

例として自転車の運転を考えて見ましょう。

自転車に乗るための大事な要素を上げるとぱっと思いつくのは3つくらいでしょうか

「バランスを取る」
「スピードの調整」
「ハンドルを切る」

それぞれの要素には関連性があります。

例えばペダルをこがず(スピードの調整を怠った状態)バランスを取るのはなかなか難しいです。

ハンドルの角度によってバランスを取る身体のポイントももちろん変わってきます。

通常そうした操作は小脳君が無意識に行っているので私たちはなんとなく出来ますが、

意識的にやろうとするとかなり大変そうです。

「今いつも歩く速さの2.5倍くらいで直進していてバランスは大まかにこのくらいで、次の門で左に曲がる時遠心力がどのくらいかかるから身体を何度か傾けて、、、」

とは普通ならないわけです。

そんなことをいちいち考えていたら頭が追いつきません。

それ以外にも障害物(犬のうんことかダンプカーやヤクザ屋さん)を察知してよけるとか、

目的地に向かうとかもあるわけです。

結構な大仕事ですぜ。



ただ一度自転車に乗れるようになった人はそんな細かいことを考えなくてもなんとなく乗れてしまう。

「自転車に乗る」という一つの行為の中に「バランスを取る」「スピードの調整」「ハンドルを切る」など色々なサブフレームがあります。

「自転車に乗る」を上手く出来るようになった人は取りあえず一定の基準で細かい要素はクリアした上でそれらを上手いこと運用できてしまうわけです。

このように全体と要素が相互作用したものが「ゲシュタルト」です。

自転車の例においては「バランスを取る」「スピードの調整」「ハンドルを切る」などの各要素より、

それらをまとめて運用する「自転車に乗る」という行為の方が「抽象度が高い」と言えます。


子供に自転車の乗り方を教える時は(最初は補助輪とか使いますけど)まずは自転車に乗る感覚を体感させますよね。


自分の学習に置き換えた場合体得できる出来るだけ高い抽象度で「出来た状態」を脳に覚えさせるほうが近道な場合もあります。

さらに裏技もあります。

それは良い先生を見つけることです。