先月の29日、束松峠を歩き
秋月悌次郎の「北越潜行の詩」の詩碑を見てきました。
行無輿兮帰無家 行くに輿無く 帰るに家無し
國破孤城乱雀鴉 國破れて 孤城雀鴉乱る
治不奏功戦無略 治は功を奏せず 戦は略無し
微臣有罪復何嗟 微臣罪あり 復た何をか嗟かん
聞説天皇元聖明 聞くならく 天皇元より聖明
我公貫日発至誠 我公貫日至誠に発す
恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書は 応に遠きに非ざるべし
幾度額手望京城 幾度か手を額にして京城を望む
思之思之夕達晨 之を思い之を思うて 夕晨に達す
憂満胸臆涙沾巾 憂は胸臆に満ちて 涙は巾を沾す
風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝として 雲は惨澹たり
何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん
秋月韋軒胤永
秋月悌次郎は通称で諱(いみな・本名)は胤永(かずひさ)、字(あざな)は子錫(ししゃく)、韋軒(いけん)と号した。
戊辰戦争時には藩の公用人として各藩との外交交渉を通して、始めから終わりまでつぶさに関わってきた。敗戦開城式をとり行ったのち、かねて旧知の西軍参謀である長州藩士奥平謙輔を越後に追って、幽閉先の猪苗代を密かにぬけだし、会津藩の善処を願うとともにその未来を託す若者の教育をたのんだ。その帰途雪の束松峠で詠んだのが、この「北越潜行の詩」である。
また、これによって束松峠を越えて学問をうけた若者の一人が、後の東京・京都帝大などの各大学の総長を歴任した白虎隊総長山川健次郎である。
後年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は秋月を「神のような人」と敬愛した。
よって、この地、束松峠茶屋跡に誌碑を建てる。一八二四生、一九〇〇没。
幕末会津藩士だった秋月悌二郎は戊辰戦争の敗戦後、
会津藩の寛大な処置と後の東京帝国大学総長となる山川健次郎の教育を懇願するため、
旧友であった長州藩士奥平謙輔がいた越後にひそかに会いに行きました。
その帰り道に束松峠の頂上から故郷を眺め、
藩の行く末を案じて「北越潜行の詩」を詠んだとされています。
秋月はどんな想いで峠からこの光景を見たのでしょう。
遠景に磐梯山が見えます
同じ歌碑が会津若松城の三の丸にもあります。
一度枝を離れた落花は、その枝に還って咲くことは二度とできない
しかし、来年咲く花の種になることはできる