11/6埼玉の共産党の方々と長野松代へ、大本営跡の視察を行いました松代は雨ですが、構内は寒さもなく14度で皇居がなんと・・・移転するはずの箱物でというか洞窟で10000人の朝鮮の方々が穴を掘り続けた200億円(現貨幣価値)の無駄使いです、カンナオトが訪れた場所です、鹿島、西松建設の連合ですが両者共に植民地支配の典型的なゼネコンなのですので小沢一郎が何故?西松なのか?理解できました、
久しぶりに赤(桃)野信さん登場します!
青野信(右派) 赤野信(左派)・・・ 桃野信(中間派)
寅さんとタイガーマスクの僕です
一応共産党員ですがクリスチャンですからキリスト教の左派の方々との連帯の旅行となりました。
松代大本営跡 (まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争
末期、 日本
(当時の 大日本帝国
)の国家中枢機能移転のために 長野県
埴科郡
松代町など(現在の 長野市
松代地区
)の山中に掘られた地下坑道跡。象山、舞鶴山、 皆神山
の3箇所が掘削された。また舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の 宮内庁
)として予定されていた建物も残っている。
国会や皇居が移転するはずだったのですねえ
松代大本営建設に至るまでの皇居の防空対策
皇居
には 1935年
頃、鋼鉄扉の防空室=地下金庫室が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。のちに 御文庫
と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、 昭和天皇
・ 香淳皇后
は空襲警報発令のたびに宝剣神璽( 三種の神器
のうち剣と印)とともに皇居第2期庁舎の防空室に避難していた。
さらに 1941年
4月12日
に御文庫が極秘に着工され、 1942年
12月31日
に完成した。施工を請負ったのは 大林組
。建築費は約200万円であった。建坪1,320m2 。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、トイレなどがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3mの厚さであった。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。
戦況が悪化したため、 1945年
6月頃にさらに頑丈な 御文庫附属室
が御文庫から90m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330m2 、56m2 の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた。この地下壕はのちの終戦時の2度の 御前会議
の場所となった。
概要
太平洋戦争以前より、海岸から近く広い 関東平野
の端にある 東京
は、 陸軍
により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため 本土決戦
を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で 1944年
7月に サイパン陥落
後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、 東條内閣
最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への 皇居
、 大本営
、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、 日本放送協会
、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
土地の買収は役場を通じて軍が行った。当時は 養蚕
が重要であったので桑畑は程度により買収金額が三段階に分かれていた。買い上げた土地のうち戦後に不要になったものは買い上げ価格の半値程度で払い下げられた(疎開補償費を元住民が半額返金した)。当該地区一帯500戸足らずのうち130戸が立ち退き対象となり、疎開は 東部軍
の指示により1945年4月から行われた。田畑の耕作は許可されていたため多くは付近の親戚や知人宅を頼った。大規模な移動が起こっていないように偽装するため、家、庭木、庭石などはそのまま、畳の持ち出しは3枚までに制限されていた。終戦後は漸次9月9日までに自宅に戻り、修理されていた家もあった[1]
。
1944年
11月11日
、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。 ダイナマイト
で発破して、崩した石屑を トロッコ
などを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が12時間二交替で工事に当たった。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。延べ人数では西松組鹿島組県土木部工事関係12万人、勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人、総工費は6000万円 。当時の金額で2億円の工事費が投入されたとも伝わっている[要出典
] 。しかし、 1945年
8月15日
の敗戦により、進捗度75%の段階で、工事は中止された。
昭和天皇の神器を奉じて帝都を動かずとの考えによって、内廷皇族では 皇太子
明仁親王
( 今上天皇
)、 義宮
(常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったと言われる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者が訪れ、 内大臣
の 木戸幸一
の日記( 木戸日記
)の1945年 7月31日
付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。
松代大本営建設作業にあたっては徴用された日本人労働者および日本国内及び 朝鮮半島
から動員された朝鮮人 労務者
が中心となった。工事は 西松組
や 鹿島組
が請け負った。 満州国
からの第4639部隊や、 賢所
工事には 鉄道省
静岡隧道学校
の若者も当たり、付近の住民は 勤労奉仕隊
として ズリ
などの運搬に、また当時の屋代中学、松代商業の生徒も陸軍工兵隊の指揮の下、運搬などに 学徒動員
され、 国民学校
初等科の生徒も運搬や山から採ってきた枝でズリを隠す作業等を行った 。勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。朝鮮人労務者は体が丈夫なせいかあまり風邪を引かず、規則正しく礼儀正しかったと言われる 。家族ぐるみで働きに来ているものもおり、子弟は日本人と一緒に学校に通った 。朝鮮人労務者の食事事情は(密殺した)牛肉を食べるなど、国内での炭鉱や土木工事などに徴用された朝鮮人労務者と比較して待遇面では悪くはなかったようで、日本人よりも良好だった。終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり250円の帰国支度金が支払われ 1945年
の秋にはほとんど 富山港
から帰国させることができた。
なお、松代大本営は主に陸軍において計画・推進されたものであるが、さらに戦局が悪化した終戦直前になって、 連合国
軍が南九州に上陸するとの想定のもと 、より作戦が取りやすいという理由などから、 奈良県
天理市
の一本松山付近に大本営と御座所を移すという計画が主に 海軍
により立てられ、実際に工事が進められていた。詳細については 天理の大本営跡
を参照。
慰安所
壕周辺に慰安所は3ヶ所あり4~5人の朝鮮人の 慰安婦
がこれらの施設を回っていた。ただしこれは軍人用のものではなく、朝鮮人労務者用の中で監督する立場の上級幹部用のもので、日本人の出入りはほとんど無かった。ただし、トラックで来た兵隊や支那服のようなものを着た女性が町の方から大勢来たのを覗きに行って怒られた子供の逸話もある 。
そのうちの一つは六本製糸本社の女工のための娯楽室だったものが1938年倒産後物置になったり1944年9月からは労務者宿舎建設工事の合宿所となっていた建物を、周辺婦女子とのトラブル防止目的の慰安所として貸し出されたもので、11月に朝鮮人一家5名と日本語の通じない接客婦3名(朝鮮の高官が朝鮮人労務者のために本国から連れてきたとされる)、雑役1名が岩手県 釜石市
より移住し慰安所、博打場として営業を開始した 。売春行為が行われていたかははっきりしない。終戦後9月、一家と使用者は帰国し、その後の建物には先の朝鮮人一家の弟夫婦が半年ほど住み着き、博打場のように使われた。弟夫婦立ち退き後、建物は医院として貸し出され、閉院後は1991年に解体されるまで再び倉庫となっていた。
松代が選ばれた理由
大本営移動計画は後に終戦時の 宮城事件
に関わることになる 陸軍省
の 井田正孝
少佐
が1944年1月に発案し、 富永恭次
次官に計画書を提出、大本営幹部会の承認を経た後、 鉄道省
の現地調査が行われ、全国に地下施設の構築計画案が決まり、大本営の建設場所には松代が選定された。選定理由は以下のとおりである[5]
。
本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場がある。
固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。
長野県は労働力が豊か。
長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
信州は神州に通じ、品格もある。
この案では松代に大本営、東京浅川に東部軍収容施設、愛知県小牧に中部軍収容施設、大阪府高槻に中部軍収容施設、福岡県山家に西部軍収容施設を建設するものであった。その後、この案は 東條英機
首相の日本政府全体の移動の意向により変更され、大規模化した。
極秘に進められた工事であったものの、工事に従事した、地元の日本人労働者の証言では、当時は、地元はもちろん、周辺地域の村では「大本営と天皇陛下が東京から移ってくる」という噂で広がっていたという。噂になった原因は、大規模な工事であり、 松代駅
に列車で輸送されてくる、大量の物資が住民の目に留まったからだとされる。
跡地利用
1947年
(昭和22年)、この松代大本営を 戦災孤児
のための施設に転用しようという動きがあったが実現しなかった。
1947年(昭和22年)、舞鶴山地下壕に 気象庁
の 地震観測所
が設けられ、現在では日本最大規模の 精密地震観測室
となっている。
1990年
(平成2年)、長野市により象山地下壕の一部(約500m)が一般に内部公開されており、象山地下壕には 信州大学
の 宇宙線
観測施設も設けられている。
大本営(地下壕)の公開
象山地下壕
放置されていた壕のひとつである象山地下壕は、地元の私立篠ノ井旭高校(現 長野俊英高校
)の教師土屋光男の指導を受けた沖縄戦研究班(現、 郷土研究班
)の高校生が市によびかけ、一部公開に至った。
舞鶴山地下壕
舞鶴山地下壕は、気象庁の地震観測所として利用されており、天皇御座所として利用予定であった庁舎内が一部公開されている。
VIDEO
来春は是非・・・花咲く放射能の街へ旅行へ・・・福島 県へ行きます、原発収束すれば東電を視察したいと皆で話しています。
松代大本営跡・・・まさに夢の跡です