サンダー・シング(Sundar Singh)(1889~1929)
スウェーデンボルグに並ぶ神秘家と言われ、また今世紀中「最もキリストに似た人物」と言われるキリスト教の伝道者。詩人のラビンドラナート・タゴール、政治家のマハトマ・ガンジーらとともに、インドの三大精神的巨人のひとりにも数えられている。
「論理」ではなく「直観」を主とした思想を言葉でまとめること自体がそもそも難しいのですが、以下に印象深い箇所をまとめてみます。
1)西洋的アプローチと東洋的アプローチ
・論理と直観
西洋文明は、科学というひとつの方法論によって、ひとつの世界観を形成してきました。それは目に見えて、計測でき、分析を経て実証できてはじめて、ものごとの存在が認められる世界です。実証できないものは、存在するとはみなされません。
しかし、このアプローチが絶対唯一のものというわけではありません。存在するものの中には、目に見えず、実証できず、言語化できないものがあるかもしれないからです。目に見えない無限の存在である神を対象とする宗教は、まさに科学的(論理的、分析的、演繹的)アプローチではうまくいかない事柄のひとつと言えます。
サンダー・シングは神秘家と呼ばれますが、彼は
「花について多くのことを知るには、長い時間を必要とする。しかし、その香りを楽しむには、一瞬しかかからない。直観もまた、このように作用するのである」
霊的な事柄(聖書)を理解するのに必要なのは知識ではなく、聖霊との交わり(祈りによる神との個人的な交わり)であると書き、西洋的キリスト教に決定的に不足しているのは「祈り」であるとしました。
・哲学者と神秘家
サンダー・シングは、思考と直観を対比させるわかりやすい譬えとして、しばしば哲学者と神秘家を用います。哲学者は、自分の知識に頼って思考する人間を指します。そして神秘家は、自分で考えるよりも、祈りによって神と交わり、神から知恵を受けている人間を指します。
神秘家と哲学者がしばらくの間一緒に黙って座っています。その後神秘家は、哲学者の考えていることがわかるといいましたが、哲学者には、まったく見当がつきませんでした。言語という分析的、論理的な媒介がないと物事にアプローチできない「論理」「思考」という方法論は、時にはこのように遠回りになることがあるのです。そして、人生とは、幸福とは、といったテーマに対しては、哲学的なアプローチは不向きであるというようなことをサンダー・シングは書いています。哲学は何百年もの間、方法論や言葉こそ新しくなっているけれども、依然として進歩せず、目的地にはついていないのは誰もが認めるところです。さながら目隠しされて搾油機にくくりつけられたインドの牛のように、ぐるぐる同じところを回って目隠しをとられると、また同じところにいるのです。
「啓示」の中のイエスは彼にこう語っています。
「真の幸福が人の考えによるものだとしたら、すべての哲学者や思索家には幸福がありあまっているはずである。しかし、私(イエス)を信じている人は別として、この世の哲学に明るい人々は、彼ら独自のルールを貫くことから得られるつかの間の喜びを除けば、幸福とはまったく縁がない。」
哲学者や思索家の中に自殺する人がけっこういるのも、上のことを裏付けることと思います。
・西洋的キリスト教の欠点
このように、真の宗教とそれに伴う真の幸福とは、頭ではなく心の問題であり、そこに到達するのに必要なのはいろいろな知識や学問よりも、個人個人が神と交わって神を直接体験することだというのが、サンダー・シングの思想です。
ところが、西洋文明を築いた科学的な方法論は、あらゆるものに浸透してゆき、人々は宗教に対してもこのアプローチをとるようになっていきました。その結果、宗教は心の領域の事柄というよりも、「頭」の領域の事柄になってしまい、それが宗教の世俗化や腐敗を招く結果となりました。真理はただの知識、学問となり、かくして「神について」知っていても「神そのもの」を知ってはいない人たちが、懐疑や議論や批判に明け暮れ、さまざまな派閥や闘争をも生みだしていったと思われます。
サンダー・シングは、「啓示」の中で、「目は、光がなければ役に立ちません。同様に知識も、真の光がなければ、暗闇でものを見ているように見間違え、霊的な真理を誤解します」
「もっと祈りに費やすべき時間を、ひとは新聞を読むのに使いすぎるのです」彼は行き詰まって相談に来る牧師たちには、いつも「もっと祈りなさい」と答えていました。キリストこそ真理の源泉であるとして、「キリストの足下で祈りをささげる、これこそ世界一偉大な神学校であります」と語っています。サンダー・シングのメッセージをただ一言に要約するとすれば、彼自身も祈りの人であり、毎朝の2時間を聖書を読んで祈り、黙想する時間にあてていたと言います。彼の言葉があれほど人々の心を捉え、またあれほど困難な伝道の度を成し遂げられたのも、この祈りというエネルギーの(聖霊の)源泉を持っていたからではないかと思われるのです。「もっと祈りなさい」ということに尽きます。祈るとは、自分の知恵を放棄し、神に聞こうとすることでもあります。それはこれまで述べたような、信仰を頭のものから心のものにするためには不可欠なものなのです。
サンダー・シングは次のように述べています。
「これは、イエス・キリストの人格を指していると思います。「真理とは、あなたが何を知っているか、ではなく、あなたがどんな人間であるか、である」という言葉がありますが、私たちが頭で思考するところの、何が正しいか、何が間違っているかというような理論とか議論とか批判は真理ではないというのです。私たち自身が、たとえ理屈で説明できなくても、多くを語らず黙っていても、イエス・キリストの人格・・・無私の、愛の人格に化せられれば、それこそが真理のしるしなのです。上に述べたように、教会は数多くの派閥に分かれています。それはあまりにも頭で考えすぎ、教義の細かい違いについて議論しあうからだろうと思います。しかし、イエス・キリストを愛し、祈りを通して個人的に交わり、そしてイエス・キリストの人格に似た者と変化していくということが中心となれば、おそらくほとんどの教会は共通項が見いだせるはずなのです。そして、逆に言えば、それ以外の部分は、些末なことだと言えるのだろうと思います。
4)実在するものと実在しないもの
罪とは、神の意志を捨てて自分の好き勝手に生きることであり、自分の欲望を満たすためなら正しいものも捨て去り、それによって幸福になれると考えることだ、と。
しかし、人間は神の意志を無視して自分勝手に生きても、決して真の幸福に至ることはないというのです。それは、
神は創造者ですが、創造者は罪を作ったわけではありません。つまり罪というのは、創造によって存在が生み出された、実体のあるものではなく(神でないものに創造する力はないから)、創造されたものを破壊するというただの欺瞞的な状態の呼び名にすぎないのです。
それは光と闇のようなものです。光というものは、実在するものです。(光子というものが、存在します)でも闇は違います。闇は光の欠如、というような定義しかできないものです。同様に、悪というのは、神という光(愛)の欠如の状態にすぎないゆえに、それによって人間が真に幸福を得たり、満足を得たりすることはあり得ないといいます。
従って、霊的な生活というのは、もっとも地に足がついた生活ということになります。真の進歩ということについて、彼はこう書いています。
「霊的な進歩がなければ、世俗的な進歩はいんちきな偽物である。世俗的な進歩は、ほかの人に損失を与えずには遂げられないものだからである。徒競走では、ほかの人々より速く走ることによって、一人の人が勝つ。彼らの敗北が、この人の勝利となる。また、商人はほかの人々の出費で儲ける。一方、霊的な進歩は本物である。一人の人の進歩が、ほかの人々の成功を助け、またそれに依存しているからである。人のために働くことで、しばしば自分でも知らないうちに、自分自身が助けられている。」
・肉の目と霊の目
・組織化と個人
彼はしばしばヴィジョン(幻視)を見るという神秘体験をしていますが、その中に現れたキリストはこう語っています。
「真の幸福は目で見えるものによらず、霊的な視覚によって生まれ、心の上にあるのだ。・・・地上の目で認識できるのは、地上のものだけである。なぜなら、肉の目は不滅の神や霊的な存在を見ることができないからだ。・・・しかし、霊の目が開かれれば、霊である神をはっきりと見ることができる。今、あなたに私が見えているのは、肉の目ではなく、霊の目で見ているのである」
サンダー・シングによれば、この「霊の目」というものは、人間がどのような知識を持っているかとは関係のないもので、知識と「真の知覚」は、例えれば、色彩についてさまざまな知識を持っている生まれつきの盲人と、目が見えている人ほどの違いがあると言います。色彩についてどんなに聞いていても、実際に目が開かれるまでは、本当の意味で色について知っているとは言えません。宗教的な事柄もそのようなものだと言えます。神についてどんなに知識を持っていても、実際に神と出会い、神と交わりを持っている人とは雲泥の差があります。前者にはいろいろな懐疑や批判や議論が伴いますが、神そのものを知っている人には、その必要はないのです。
これも西洋キリスト教とサンダー・シングの教えの違いです。
サンダー・シングは生涯どの教派にも属さず、ただキリストに属すると公言していました。「私たちの教師はキリストのみである」と書かれている聖書に忠実に、誰の弟子にもならず、自分も弟子をとらなかったのです。
これは、人間から知識を得るよりも、祈りによって直接神から教えられるという方法を重んじる彼としては当然の結果と言えます。
「わたしはどの宗派にも属していません。わたしはひとりの単純なキリスト教徒です。宗派主義は『けんか主義』となります」
彼ははじめの頃神学校に通いましたが、後に退学して、精神的に得るものはあまりなかったとしています。人から学ぶ学問ではなく、祈りによって、どこの神学校でも教えていないような豊かな知識を次から次へと得ることができたのでした。彼は
さまざまな宗派が存在し、争っている状況で、サンダー・シングは分析的な態度を捨て、宗派や教義の制限を超えて、いかなる形式のキリスト教をも容認する心構えでなくてはならないとしています。
西洋キリスト教は、サンダー・シングのこうした態度に大いに学ぶ者があるように思います。教会組織ががっちりと出来上がり、何事にも上からの伝達があり、真理についても上の人たちが会議で決めた教えが公布され、教派同士が争っているというような状況の中で、もう一度原点に帰り、ひとりひとりがただひとりの教師、キリストに教えを受ける生活をするべきではないかと思います。そうすれば、人々は「○○派に属するキリスト教徒」ではなく、ただの「キリスト教徒」になれるのではないでしょうか。
2)祈りについて
「毎朝、神の御言葉を静かに瞑想し、祈ることにある程度の時間を割きなさい。そうすれば、あなたの人生は驚くほど変わるでしょう」
罪とは、存在自体が欺瞞的な、破滅的な状態(実在しないもの、実体のないもの)だからです。これまで「精神世界2めぐり」で紹介してきた霊性豊かな人々もみな、祈りの人であるという点で共通しています。彼らは人から学んだ知識ではなく、神から受けた知識によって人々を魅了したのです。
では祈りとはどのようなものだと彼は言っているのでしょうか。
彼によれば、祈りとは、神様に特別なお願い事をすることではありません。
「祈りによって神の計画を変えることはできない。そうではなく、祈りの人自身が変えられるのである。」
祈りとは、呼吸のようなもので、それは霊的生命にとって空気や水、熱や光のように欠かせないものだということです。それを続ければ、霊は太陽の光と熱を浴びた植物のようにすくすく成長し、幸福に満たされるばかりか、キリストに似た人格にまで変えられてゆくというのです。しかしそれをやめれば、霊の生命はたちまち衰えてゆき、さまざまな誘惑や悪い思いの虜になって滅んでゆくといいます。これをサンダー・シングはさまざまな例えを用いて表現しています。
・魚たちはときどき呼吸をしにあがってこなくては、川底で生きていけない。それと同じことがわたしたちが昼も夜も働き、仕事や行事で毎日非常に忙しいこの世界についてもいえる。魂もときどき水面にあがって呼吸をしなくては、水底で死んでしまうにちがいないのである。
・よい花も手入れをしなければ質が低下して野生に逆戻りしてしまうように、祈りや霊的生活を無視すると人生という大海の中におぼれてしまう。祈りによって私たちは世にいながらにして世のものによって害を受けず、それを有益に利用することができる。
・神は人間の本質に飢えと渇きとを吹き込まれた。それは神のみが満たすことができるもので、それらを世の富や自尊心、名誉などで満たそうとするのは、火を消そうとしてガソリンを注ぐようなものである。祈るものは渇くことのない平安と満足を得る。
・祈ることで主と語り合う間柄になれ、主と交わることでだんだん主に似たものとなっていく。
伝道旅行中、夜中の3時ごろ祈っているサンダー・シングを発見した人が、「なぜ、祈りにそんなに時間がかかるのか」と聞いたところ、彼はこう答えています。
「集中するのに15分から20分かかります。それから祈り始めるのですが、言葉は一切使いません。私は愛するイエスがとても身近にいると感じ、両手をイエスの両手に置きます。朝がきて祈りをやめなければならない時期になると、イエスから離れるのがとても辛いと思います」
つまり、サンダー・シングは、アンドリュー・マーレーが教えているような「神を待ち望む」祈り、念祷をしていたと言えます。ただじっと座って、神からの満たしを待ち望むこと。祈りは悔い改め以外に、このような念祷が不可欠なのではないかと思います。
3)福音の中心はキリスト