「不吉な」黒猫、
10月に虐待が増加
=英動物愛護団体
10月30日 21時52分
また、RSPCAによると、黒猫がシェルターに保護された場合、引き取り手が見つかるまでに時間がかかることも多いという。
保護施設のマネジャーを務めるビバリー・リービー氏は、「残念なことに、引き取りの候補から黒猫が除かれることはよくあるが、素晴らしいペットになる」と訴えた。
黒猫にまつわる迷信は国によって様々だが、道を横切ると不吉とされるものは多くの国で見られる。起源については、中世のヨーロッパでペスト流行の原因と考えられたなど諸説がある。
黒猫が如何の?って日本人には理解できないですが?ヨーロッパは世界の辺境の地で迷信多数あります、キリスト教が伝えられるまでは野蛮な文化も横行していた異邦人の国なのです,それは実は現代でも生きている迷信なのですけど迷信て怖いですね。
魔女狩り
魔女狩り(仏 : Chasse aux sorcières、英 : Witch-hunt)は、中世末期から近代にかけてのヨーロッパ や北アメリカにおいてみられた魔女 (sorcières、Witch)や魔術 行為(Witchcraft)に対する追及と、裁判 から刑罰 にいたる一連の行為のこと。現代では、このような行為は心理学的な観点から集団ヒステリーの産物とみなされているが、現代においても前近代的な文化や古来からの伝統を重視する社会において魔女狩りに類した行為が行われることがある。
かつて魔女狩りといえば「12世紀 以降キリスト教会 の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かったが、このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「もともと民衆の間から起こった魔女狩りは15世紀 から18世紀 までにかけてみられ、全ヨーロッパで最大4万人が処刑された」と考えられている。
「魔女」と称するものの犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も「男性の魔女」ともいうべき形で含まれていた。
ヨーロッパにおける魔女狩り
古代以来、人々は自らの限界を超えた大きな力、自然をコントロールしたり、超自然に干渉できる力を何らかの方法で持つことができると考えていた。これがヨーロッパにおいてラテン語 で「マレフィキウム 」(Maleficium)と呼ばれる「害悪をもたらす魔術」の概念につながっていく。もともとヨーロッパの各地では民事に関しては、権力者でなく民衆が自発的に行う民衆裁判によって治安を維持する伝統があった。その中で暴力や窃盗とならんで、「魔術によって出た害」も裁きの対象となっていたが、特別重い刑が科せられるというわけでなく、他の犯罪と同じように被害に応じた刑が科されていた。また同じ魔術でも良い目的に用いられると考えられたもの、いわゆる「白魔術 」は一般的に良いものとみなされていた。
中世に入ると、キリスト教社会において(公式な教会の教えではないにせよ)悪魔 が人間や動物を使って悪のわざを行うことが信じられるようになった。このような考え方はキリスト教以前からの民族信仰の名残りや十字軍 兵士たちによって東方から持ち帰られた思想・文化などが融合して生まれたと考えられている。古代以来、悪魔が人間に影響をおよぼすことができるという考え方も根強くあり、人々はそれを根絶しようとしてきた。その一つとして悪魔のしもべとされた人間への糾弾があった。悪魔の使いとされたのは人間だけでなく、動物も含まれており、中世ヨーロッパで見られた動物裁判では「悪魔のしもべとなった」という動物の罪状もあった。人々は「悪魔につかれた」と思われた人々を捕らえては民衆法廷で裁いていた。
女性研究家マックス・ダシュー (Max Dashu)によれば、中世の人々が持っていた魔女観はキリスト教以前の社会にさかのぼるものも見られるという。たとえばローマの民族宗教であったバッカス 信仰やローマの伝説に出る怪物ストリクス (女性の姿をし、ふくろうに化けて空を飛ぶとされた)と魔女像との関係が指摘されている。
かつて「魔女狩り」といえば「中世ヨーロッパにおいて12世紀のカタリ派 の弾圧やテンプル騎士団 への迫害以降にローマ教皇庁 の主導によって異端審問 が活発化し、それに伴って教会の主導による魔女狩りが盛んに行われるようになり、数百万人が犠牲になった」のように語られることが多かった。しかし1970年代以降、さまざまな研究によってこのようなステレオタイプ な見方は覆されることになった。特に有名なノーマン・コーン (Norman Cohn)とリチャード・キークヘファー (Richard Kieckhefer)の研究によれば、魔女狩りはスイス とクロアチア の民衆の間で始まり、やがて民衆法廷という形で魔女を断罪する仕組みがつくられたという。異端の追求は行っていても、魔女裁判には長く関与していなかったカトリック教会 が異端審問を通して魔女狩りとかかわりを持つようになるのは15世紀 に入ってからのことである。これは1384年 と1390年 にミラノ の異端審問所に、魔術を用いた容疑で訴えられた二人の女性に対して、異端審問所ではこの種の訴えを裁くことはできないという判断が出されていることからもわかる。
魔女狩りの展開と衰退
12世紀に始まった異端審問が、それまで民事裁判で裁かれていた魔術を扱うようになったのは15世紀に入ってからであるが、それはワルドー派 が多かったスイスやフランスのアルプスに近い地方で始められた。ノーマン・コーンによれば記録に残るものでは1428年 にスイス、ヴァレー州 の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。もともとこの地方の異端審問所はワルドー派の追及を主に行っていたため、やがて異端の集会のイメージが魔女の集会のイメージへと変容していくことになる。悪魔を崇拝する、あるいは聖なる物品を侮辱する、子供をとらえて食べるといった魔女の集会の持つイメージはかつて異端の集会で行われていたとされたものそのままであった(魔女は本来群れるものとされていたのであり、森に一人で住む魔女というイメージはグリム童話 などに負うところが大きい)。
さらに魔女の概念が当時のヨーロッパを覆っていた反ユダヤ主義 と結びつくようになると、「子供を捕まえて食べるかぎ鼻の人物」という魔女像がつくられていった。魔女の集会がユダヤ人にとって安息日 を意味する「サバト 」という名称で呼ばれるようになるのも反ユダヤ主義の産物である。このように人々の間に共通の魔女のイメージが完成したのが15世紀のことであった。
『魔女に与える鉄槌』表紙
15世紀に入ると、魔女と魔術に関する書物が一種のブームとなる。たとえばニコラス・ジャキエ(Nicolas Jacquier)の『異端の魔女に与える鞭』(Flagellum Haereticorum Fascinariorum, 1450年)やウルリヒ・モリトール(Ulrich Molitor)の『子供の血を飲む魔女』(De lamiis et phitonicis mulieribus, 1489年)などがあり、特に有名なものとしてドミニコ会 の異端審問官であったハインリヒ・クラマー (Heinrich Kramer)とヤーコプ・シュプレンガー (Jacob Sprenger)によって書かれた『魔女に与える鉄槌 』(Malleus Maleficarum, 1487年)がある。しかし、そういった書物のほとんどは俗説や噂をもとに書かれ、いたずらに魔女の脅威をあおるような低俗で扇情的なものであった。今日に伝わる魔女の嫌疑をかけられた人々に対する残虐行為の数々も、多くはこのような風説に基づくものであった。
魔女狩りに対しては当時から多くの反対意見が存在していたが、その中でとくに大きな影響を与えたのがヨハンネス・ウィエルス (Ioannes Wierus)であった。1563年 に『悪霊の幻惑および呪法と蠱毒について』(De Praestigiis Daemonum et Incantationibus ac Venificiis)を発表し、『魔女に与える鉄槌』を「まったく根拠も信仰もない」と非難している。その一方で、「やっかいな悪魔に誘惑された高位高官の人びとに対する真からの同情心」が執筆の動機であるとして、魔女狩りは悪魔の誘惑によるものであり責任は悪魔にあるとの説を展開し、これまで魔女裁判を行った者への配慮も怠らなかった。同書は大きな反響をよび、多くの地方において魔女裁判が寛大かつ慎重に行われるようになり、魔女だとされたものが同書の論理で弁明をすることもあった。第三版の刊行時にウィエルスは皇帝フェルディナント1世 に「不当な魔女裁判の助長を差し押さえる特権」を請願し認められている。しかしながら、しだいに魔女狩りを行う地方が増加していき、ウィエルスが『悪霊の幻惑について』を執筆した地においても1561年 には水検査と拷問が復活している 。
魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀であったが、17世紀末になって急速に衰退していく。なぜ魔女狩りが衰退したのかということについてはさまざまな説があるが、どれも決め手に欠くきらいがある。たとえば17世紀はガリレオ・ガリレイ (1564年 -1642年 )、ルネ・デカルト (1596年 -1650年 )、あるいはアイザック・ニュートン (1643年 -1727年 )など近代的な知性の持ち主たちが次々と登場し、出版物によって人々の意識を変えた時代であったため、前近代的な魔女狩りが一気に衰退したという説明がされることがある。しかしこのような見方はあくまで現代人の見方である。印刷術が普及したといってもメディアの発達していない当時の社会ではある思想が階級や国境を超えて普及するのには長い時間が必要であり、ニュートンが錬金術 に夢中であったことからわかるように、当時の先端を行く科学者たちですら、前近代的な思考スタイルから抜けていなかったことを理解する必要がある。
ただ、17世紀末期になると知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリック・プロテスタントともに個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきたことは確かなことである。依然として一般庶民の間では魔女や悪魔への恐怖があって「魔女」の告発が行われても、肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていった。イングランドで1624年に制定された魔女対策法が廃止されたのは1736年であり、最後の40年間はこの法律によって死刑となったものはいなかった。しかしながら、これを引き継いだ1735年妖術行為禁止令は、1951年に詐欺的霊媒行為禁止令に取って代わられるまで存続し、1944年にヘレン・ダンカン が最後の拘留者となった。この逮捕は、彼女によってノルマンディー上陸作戦 の計画が露見するかもしれないことを恐れた軍情報部の要請によるものとも言われている。1735年妖術行為禁止令は1983年までアイルランドで施行され続けた(が、実際に適用されることはなかった)。パレスチナを委任統治していたイギリスの法制度を導入したイスラエルでは、現在でも施行され続けている。詳細は en:Witchcraft_Act#1735_Act を参照。
魔女裁判の方法
魔女狩りの根拠とされたのは旧約聖書 『出エジプト記 』22章18節の「女呪術師を生かしておいてはならない」 (מְכַשֵּׁפָה לֹא תְחַיֶּה [məḵaššēṕāh lō’ təḥayyeh]) という記述である 。ここで言う女呪術師、原語メハシェファ (מְכַשֵּׁפָה)とは、「魔法を掛ける」「魅惑する」という意味の動詞キシェフ (כִּשֵּׁף [kiššēṕ])と語根 を同じくする女性名詞である 。この「魔術を行う女性」というほどの曖昧な表現が欽定訳聖書 (1611年 )の編集時に「魔女」(Witch)という言葉に訳され、当時の人々のイメージに合わせて書き換えられた。このため、この部分が魔女狩りの聖書における根拠になりうると考えられた。
魔女として訴えられた者には、町や村、もしくはその近郊に住む女性で、貧しく教養がない、あるいは友人が少ないといった特徴を持つものが多かったようである。近代に入ってもカトリック・プロテスタント を問わず、宗教界の権威者たちは非キリスト教的な思想を嫌った。それは旧約聖書 にあるヘブライ人たちの多神論への攻撃にその論拠を求めたものであった。
裁判において訴えられた者が魔女であるか否かは取調べによって明らかにされた。取調べでは拷問が用いられることもあり、もっとも残酷なものとしては熱い釘をさしたり、指を締め上げたりといった恐ろしい方法も用いられた。ただ、このような拷問が全員に対して行われたわけでなく、拷問の使用の是非は地域や取調官の性格によっていた。たとえば清教徒革命 の時代(17世紀 )にイギリス東部で「魔女狩り将軍」を名乗ったマシュー・ホプキンス なる人物がいた。彼は魔女とおぼしき人物を探し出し、体にある「魔女のしるし」を見つけては魔女であることを確定していた。彼は魔女狩りの歴史において最悪の「裁判者」の一人であるが、彼の裁いた件であっても訴えられた女性がすべて魔女とされたわけではなく、無罪放免になったケースも多かったことが明らかになっている。ただ、このホプキンスの魔女に対する取調べでは残酷な拷問が用いられたり、魔女であることの証明を得るため、拷問 によって本人の自白を得るか、知人や隣人に証言させるという方法を用いたことが知られている。
魔女狩りの歴史を研究するジェニー・ドビンス(Jenny Dobbins)は魔女狩りの最盛期(1567年 -1640年 )に民衆法廷から教会裁判へ持ち込まれた魔女裁判の容疑の半分以上が証拠不十分として無罪宣告され、拷問 は用いられず、被告は「自分が魔女でない」ことを宣誓してくれる証人を呼ぶ権利を認められていたといい、さらに訴えられたケースのうち21%のみが教会裁判で裁かれたが、教会がなんらかの罰や刑を課すことはなかったという。
ただ、教会裁判の実情が以上のようなものであっても、実際にはほとんどの魔女とされた者は民衆法廷で裁かれており、民衆法廷には厳密なシステムやルールが存在しないだけに、行き過ぎた拷問や刑罰が行われたものと考えられる。
処刑法としてはヨーロッパ大陸では焚刑 (火あぶり)が多く見られたが、イギリスでは絞首刑 が主流であった。ほかにも溺死刑 などがあった。
『拷問の歴史』(The History of Torture Throughout the Ages)の中でジョージ・ライリー・スコット (George Ryley Scott)は魔女の疑いをかけられたものに対しての取調べや拷問 は、通常の異端者や犯罪者以上に過酷なものでなければならないという通念がはびこっていたという。それだけでなく魔女に対する取調べのために新しく考案された拷問 もあり、魔女裁判によってヨーロッパに古代から伝わっていた民間伝承の多くが失われることになったという説もあることを紹介している。
時期と地域、犠牲者数
魔女狩りはかつて「長期にわたって全ヨーロッパで見られた現象」と考えられていたが、現代では時期と地域によって魔女狩りへの熱意に大きな幅があったことがわかっている。全体としていえることは、魔女狩りが起きた地域はカトリック・プロテスタントといった宗派は問わないということであり、強力な統治者が安定した統治を行う大規模な領邦では激化せず、小領邦ほど激しい魔女狩りが行われていたということである。その理由としては、小領邦の支配者ほど社会不安に対する心理的耐性が弱く、魔女狩りを求める民衆の声に動かされてしまったことが考えられる。
時期を見ると16世紀から17世紀、さらに限定すると1590年代、1630年ごろ、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。
地域別に見るとフランス は同じ国内でも地域によって差があった。ドイツ では領邦ごとの君主の考え如何で魔女狩りの様相に違いがあった。イタリア 、ヴェネツィア では裁判は多かったが、鞭打ちで釈放され処刑はほとんどなかった。スウェーデン では強力な王権のもとで裁判手続きが厳守されており、三十年戦争 期には占領したドイツ領邦で魔女狩りを抑止していたが、17世紀中ごろより大規模な魔女狩りが発生している。スペイン (バスク地方 を除く)では異端審問が行われていたが、これが魔女狩りに発展することはなかった。オランダ では1610年を最後に魔女が裁判にかけられていない。ポーランド 、少し遅れて18世紀のハンガリー では激しい魔女狩りが起こった。イングランド では1590年代がピークであったがすぐに衰退した。対照的に隣接し17世紀以後に同君連合を形成していたスコットランド では1590年代~1660年代と長きにわたっており、一方アイルランド ではほとんど見られなかった。北アメリカの植民地ではあまり見られなかったが、1692年 にニューイングランド のセイラムで起こった大規模な魔女騒動(セイラム魔女裁判 )が例外的な事件であった。それゆえに人々に衝撃を与えアメリカの歴史に暗い影を落とした。同時に、魔女狩りの当時者による公的な謝罪が行われた唯一の事件でもあった 。
魔女狩りの犠牲者に関してのもっとも極端な説は、19世紀のフェミニスト研究者マティルダ・ジョスリン・ゲージ が示した900万人である。これはあまりに極端であるとしても、かつて魔女狩りについて(客観的な根拠がないまま)犠牲者数が数十万人から数百万人と見積もられていた時代もあった。しかし近年行われている一次史料からの推計によれば、魔女裁判による処刑者数は1428年 から1782年 までに全ヨーロッパで最大40000人であるとされており、ヴォルフガング・ベーリンガー (Wolfgang Behringer)、ロビン・ブリッグス (Robin Briggs)、ロバート・ハットン (Robert Hutton)といった研究者らはこの見解で一致している 。