マルティン ルター
ドイツの宗教改革者、牧師、説教者、神学者。
チューリンゲン地方の農民から移住し、マンスフェルトの銅鉱山の坑夫から銅精錬業経営者となった父ハンスの期待を受け、エルフルト大学で法律を学び始めますが、目前に落ちた雷の恐怖の中で修道士の誓いを立て、1505年に修道院に入ります。その頃のルターの課題は「いかにして恵みの神を獲得するか」であったと言います。その回答を求め修道院で厳しい修行をしながら、ヴィッテンベルク大学で神学博士を得て、聖書教授となります。
修道院での聖書講解における詩篇講義を通してパウロの書いた手紙に触れ、そこに記されたキリストの福音に深く動かされて、「キリスト教信仰の核心は、自ら努力して『神の義』を獲得するのではなく、神の恵みと愛によって与えられる『神の義-救い』にある」ということを再発見します。やがてこの福音理解、信仰の確信をもって、当時のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて問題提起しました。(1517年10月31日「95箇条の提題」-宗教改革記念日の由来)。
ところが絶対的な力をもつ教会を批判したとされ教皇庁の審問を受け、1520年には教会から破門、翌1521年には帝国から帝国追放刑(事実上の死刑)を宣告されます。しかしザクセン選帝候の保護のもとでワルトブルク城にかくまわれますが、その時(1522年)11週間と言う速さで新約聖書をドイツ語に、次いで1534年には旧約聖書全体を翻訳します。このことにより、ラテン語の解らない一般の大衆に聖書を読む機会を与えたばかりでなく、結果的に、各地の方言に分かれていたドイツ語を統一するのに大きな貢献をすることとなります。また、人々が歌いやすいような讃美歌を数多くつくりました。そのようにしてルターは、物心両面でイエス・キリストの福音を人々に分かりやすく、また身近なものとしたのです。
このようにルターの「宗教改革」はすなわち一人一人の「信仰改革」であり、教会と帝国の迫害と攻撃にもかかわらず、多くの人々に受け入られて、ドイツ各地から北欧に広まって行きました。ルターはこれを指導するほか、大学での聖書講義と著作活動を生涯にわたって続けました。
ノルウェー・フィンランドのルーテル教会
ルターの宗教改革運動がドイツから北にひろがっていったことにともない、スカンジナビア諸国では宗教改革が平和裡に実現して行きます。当時スカンジナビアを統治していたデンマークとスウェーデンでは、国王自身が改革運動の後援者となり、1536年にコペンハーゲンでひらかれた国民議会において、デンマーク全土でローマ・カトリック司教の権威をみとめないことが決議され、教皇庁と絶縁しました。これにより、スカンジナビア諸国は宗教改革ルター派の信仰を基盤とした国家となりました。その後、ノルウェーとフィンランドがそれぞれデンマークとスウェーデンから独立して行きますが、ルーテル教会は国教会として受け継がれてゆきます。
ノルウェー・フィンランドにおけるルーテル教会は、国民の80%から90%以上が所属する大きな教会として、それぞれの国の生活文化や政治経済に今も影響を与え続けています。そういった中で、ルーテル教会の教会員の中から「もっと明確にイエス・キリストを信じる個人的な信仰に立ち返るべき」と自覚してゆく運動(霊的覚醒運動)が生まれてきます。有名なものに、ハンス・ニールセン・ハウゲ(1771~1842)からはじまる「ハウゲ運動」があります。彼は「伝道は国教会の聖職者の職責」とする立場の人たちから迫害されながらも平信徒の巡回伝道者として、ノルウェーのルーテル教会の信仰に影響を及ぼしました。この「信徒主義」の伝統がノルウェー・ルーテル伝道会 、フィンランド・ルーテル海外宣教会 やフィンランド・ルーテル宣教会 といった伝道活動を生み、その「信徒主義」が来日された宣教師を通して、私たち西日本福音ルーテル教会の基本姿勢 として引き継がれてゆくのです。
世界のルーテル教会
1517年にマルティン・ルターの宗教改革によりドイツで誕生したルーテル教会は、ルターの「宗教改革」の流れを汲むキリスト教会として、福音を伝えながら、ドイツから北欧に、国民教会となりました。その後、アメリカにも渡り、更にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどに至って今日、全世界で約7000万人の会員数を数えます。
日本では、今から約100年前に、アメリカからの宣教師によって最初のルーテル教会が生まれました(日本福音ルーテル教会)。そして約50年前に新たにアメリカ、ノルウェー、フィンランド、ドイツなどから宣教師が来日して、新たなルーテル教会系の教団が誕生しました(日本ルーテル教団、日本ルーテル同胞教団、近畿福音ルーテル教会、西日本福音ルーテル教会、フェローシップ・ディコンリー福音教団など)。現在、日本には約270のルーテル教会が存在しています。
10月31日(宗教改革記念日)
95ヶ条の論題
ドイツ における贖宥状 の大量販売にはドイツ諸侯の思惑もからんでいたため、ルターのテーゼがもたらした議論は単なる神学論争から一大政治論争へと発展、「プロテスタント 」と呼ばれる新しいキリスト教グループを生み出すことになった。宗教改革 の幕開けの事件とみなされる。
目的と経緯
ヴィッテンベルク の教会は、当時ヨーロッパで最も豊富な聖遺物 コレクションがあった。それらはザクセン選帝侯 フリードリヒ3世 (賢公)が収集したものだった。当時、聖遺物に対する崇敬は盛んで、見るだけで免償(罪の償いの義務を軽減すること)が得られたり、煉獄 での清めの期間を短くできると信じられていた。ルターの研究書を書いているマルティン・トロイ(Martin Treu)によれば、選帝侯は1509年 ごろ、「すでに5005もの聖遺物を収集していた。その中には聖母マリア の母乳入りの瓶、イエスの生まれた飼い葉おけのわら、ヘロデ大王 による幼児虐殺 の被害者の完全な遺骨などがあった。このような遺物は通常、手の込んだ銀細工が施された保管容器に収められ、年一度公開されて参拝者を集めていた」という。1520年、選帝侯の聖遺物コレクションの数は19013にも達したという。
人々は免償を得ようとこぞってヴィッテンベルクの教会を訪れ、その齎す功徳の総計は「人々が煉獄に入る期間を合計にして19万年も減らす」(トロイ)ほどのものだったという。
ヴィッテンベルクの教会の扉に論題が張られたのにはこのような経緯があったが、ルターが当時の教会の贖宥理解に疑問を抱いたのには、贖宥状販売で有名だったドミニコ会 員ヨハン・テッツェル の存在が大きかった。テッツェルは教皇 レオ10世 とマインツ大司教 アルブレヒト のお墨付きを得て贖宥状を売り歩いていた。聖遺物展示による贖宥状売り上げが落ちることをおそれたフリードリヒ賢公と資産の流出を嫌ったザクセン公ゲオルク の命により、領内での贖宥状の販売は禁止されていたが、人々はわざわざ他領へ赴いてテッツェルの贖宥状を求めるほどの人気ぶりだった。ルターのもとに告白に来る信徒たちも誇らしげに贖宥状を示し、自分にはもう罪の償いは必要ないと言い切るのを見てルターは複雑な気持ちになった。
提示方法
通説では、ルターは95ヶ条の論題を1517年10月31日 にヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に提示したとされる。これに対して研究者の一部には、当時の記録に記述がないという理由で通説を疑問視する者もいる。通説擁護派からは、「当時の大学では、何か意見がある時は聖堂の扉に掲示するのが一般的だった(現代で言えば「掲示板」)ので、当たり前すぎて記録に残していないのだ」という反論がされている。
更に論題が各地で急速に話題になったことから、ルターが論題を掲示するだけでなく各地に送付したという説もある。この説は研究者の中でも否定する声が少ない。というのも、たとえばマインツ大司教、教皇、ルターの友人たち、各地の大学などに送られたと考えるのは至極妥当なことだからである。1518年に入ると、論題はドイツ語 等に翻訳された印刷物となって急速にヨーロッパ全土に広がった。
(正式名称:"Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum" (『贖宥状の意義と効果に関する(マルティン・ルターの)見解』))とは1517年 にマルティン・ルター が当時のカトリック教会 の免償理解に疑義を呈して発表した文章(テーゼ)。ルター自身はあくまでも神学上の論争と考えていたことから、当時の民衆にはほとんど読めなかったラテン語 で書かれている。