たとえ社会的な情況がどうあろうと,

また政治的な情況がどうであろうと,

さしあたってわたし」が現にきょう生活し,

あすもまた生活する,

ということだけが重要であって,

政治的・社会的情況が,

直接にあるいは間接に

「わたし」の生活に対して影響を

およぼしていようがいまいが,

それを考える必要もないし,

考えたってどうなるものでもない,

そのような前提に立つとすると,

情況について語ること自体が,意味を持たない。


これが考えられる限りの,大衆が存在している,あるがままの原像である。

「大衆の原像」
とは,日常の生活を繰り返し続けて,職業上の生活の範囲でものを考え,その範囲でものを解決していく,というふうに思考する,そういう存在である。

これが吉本隆明の有名な
「大衆の原像」
のおおよその内容です。




「知識人」および「大衆」という概念規定は,存在様式であって,価値概念ではありません。

大衆
は社会の構成を生活の水準によってしかとらえないで,けっしてそこから離陸しようとしない,という理由で,きわめて強固な巨大な基盤の上に立っている。

それとともに,情況に着目しようとしないために,現況に対してきわめて現象的な存在である。

もっとも強固で巨大な生活基盤と,もっとも微少な幻想のなかに存在する,という矛盾が,
大衆
の持っている本質的な存在様式である。

知識人
とは,そのような存在様式から,観念的に離脱して,必然的に知的上昇課程をたどる存在を意味する。その必然的な上昇過程は,自然課程である。

つまり,
大衆がその存在様式の原像から,知識人へと知的に上昇していく課程は,有意義性を持たないところの,単なる自然課程にすぎない。もし知的に上昇していく知識人の存在に,有意義性を持たせるとしたら,知識人の思想的課題は,大衆
の存在様式の原像を, たえず自己のなかに繰り込むことである。

世界思想の水準までいくことのできる可能性のところから,
「大衆の原像」を繰り込むことができるということが,意識的な知識人
の存在理由にほかならない。

吉本隆明は,意識的な
知識人
の存在理由を,そのように規定しています。


ところで,言葉の世界には見向きもしないし,言葉の世界から侵犯もされることもない,確かな生活実感を持ったそのような
「大衆の原像」は,現在の日本の高度資本主義消費社会では,失われてしまったのではないか,そのために,知識人「思想の自立」の拠点は,揺らいでしまったのではないか,と言う批判があります。「大衆の原像」
が転向したら,どうなるんだ?

しかし,吉本隆明が反論するように,転向など考える必要性を感じないから
「大衆の原像」
である,と言えるのです。

「大衆の原像」は,支配制度の経済社会的な構造に対応する<無意識>の深層として,常に制度の経済社会的な構造と一緒に<変化>し続ける。したがって,「大衆の原像」「思想の自立」
する根拠であることは,相対的真理としての理念であって,確かなものである。

「大衆の原像」が,言語や映像と無関係な場所では,想定できなくなったために,逆に「知識人の原像」が,もはや「大衆の原像」と自分とを区別するすべての根拠を失い,そのせいで,大衆嫌悪大衆蔑視知的エリー意識
の過剰となって,現われる。

「大衆の原像」の変容は,同時に「大衆」「知識人」
の境界の溶解にほかならないのです。



吉本隆明にとって,