そう、誰でもない。

こんな感情、感覚、誰にも感じなかった。

大野さんだけ。

大野さんだけなんた。

しっとりとした唇の柔らかさだって覚えてる。忘れてなんかいない、忘れることなんで出来なかった。他の誰だっていいわけじゃないんだ。

高鳴る鼓動だって。

湧き上がってくる嬉しさだって。

どうしようもなく浮き立つんだ、心が、身体が。

他の誰にもこんな反応なかった。

理性なんかで行動出来ないし制御が利かない。触れ合った唇の心地良さをもっと感じたくて、もっと近づいて、触れあいたくて。

ぐっと抱き締めた。

「っん!」

微かに呻いた大野さんの言葉? 溜め息に更に行動が大胆になっていく自覚はあった。止めようなんてこれっぽっちも思ってないけど。

「ふっ・・・」

互いに息を吐く為なのか、自然と離れてそっと吐く大野さんの息さえも吸い込んでしまいたくなる。

「!」

はっとした大野さんを押さえようとして、すかさず唇を重ねて先を促す。

弛んで力が抜けた唇は簡単に俺の舌を受け入れて、そこから先は昂奮に拍車がかかったように、無我夢中で貪る。お互いの舌が絡む気持ち良さに、背中に回した手が頭にかかり押さえつけるように逃げられないように、でも、そんなこと必要ないくらいに・・・

大野さんは俺に応えてくれた。

好きって。

お互いに想いがあって交わすキスって、こんなにも心も体も全部持って行かれるような感覚になるんだ。

そう思った。

と・・・確信してしまった。

と・・・ふいに身体の半身をもぎ取られるような衝撃で、突き飛ばされてしまった。

 

!!

「大野さん?」

「何するんだっ!」

茫然とした俺の前に真っ赤な顔に怯えた瞳の大野さんが仁王立ちしていた。

「なに・・・て・・」

「冗談じゃない」

言葉の勢いを裏切るような視線は彷徨って、不安をたたえた瞳が揺れてる。俺は俺でこの状況に混乱してしまっているし。

二人ともまともに考えることなんて出来ない状態のまま、会議室は静寂に包まれて。

「あの・・今のって」

兎に角何とか会話したくて言葉にした途端。

「相手にならない」

「へ?」

言ってる意味が分かんなくて、間の抜けた返事をしている内に、大野さんは身を翻して会議室を飛び出して行った。

「ちょっと! 待って!!」

脱兎の如く走り抜ける廊下に、一足遅れた俺は追いつけずに、無常に降りて行くエレベーターを見送り、階段を駆け下りた。

息が切れて苦しくて、でもそんなことを言ってる場合じゃないってことは理解した。多分俺の直感は正しいと思うから。今、このまま大野さんの手を離すような馬鹿な真似は絶対にしちゃいけないんだ。

言葉なんて意味ない。

身体の方が正直なんだ。

ずっと側に居てくれた意味は、単なるお節介とか親切なんかじゃないって、そう思ってもいいんだよね?

必死に駆け下りて、地下駐車場の扉を開けて大野さんの名を叫んだ。

「大野さん!!」

反響する音に、返答する声はなかった。

勿論、車が出て行った気配も、臭いも・・・なかった。

 

 

 

 

 

逃げた。

頭の中が真っ白になって、自分でも何がどうなっているのかも分からずに。口から出てくる言葉さえも、意味不明になってるだろうって思ってもどうでもいい。ひたすらこの場から逃げなければ駄目だ。このままなし崩しに溺れてしまったら、破滅しかないから。

会社を飛び出して、運よくタクシーを拾えた。

行き先を聞かれてもなんて答えたのかも記憶になかったから・・・実際にドームの前で降ろされた時、漸く馬鹿なことをした自分に腹が立ってきた。

今までの俺の行動は何の為だったんだ? 自己満足だってのは自覚してし、誰にも迷惑をかけてないってそう浸っていた。

自分勝手な思い込みだったって、今なら分かる。

好きな相手との接触は全てを吹き飛ばしてしまった。細やかな満足感も、自分勝手な楽園も。全部幻になってしまった。

「こんなもの要らないし、知りたくなかった」

小さく呟いた言葉は行き交う人の耳に入ったのかどうか、ただぼうっと立っている俺を不審げに見て通り過ぎていく。

「あの・・・大丈夫ですか?」

「っ! 大丈夫ですから」

そっと声をかけて来た女性に慌てて頭を下げてその場を離れる。何をやってんだ俺は。

俯き加減で歩き出す。

VVVV・・・

松潤!!

ポケットから取り出した電話のポップアップ画面には翔君の名前。知らずに溜め息を吐いて残念がっている自分に苦笑いしながら出た。

『智君?』

結果報告を求める言葉に、何て答えていいのか迷う。