思い起こせば40年程前の話になる。
高校を卒業して、就職のために地元を離れ都会に出ていた。名古屋は、愛知県の代名詞。愛知県地方住みの私としては、名古屋に就職すると言う事は、長年の憧れだった。バブル時代にはまだ遠いそんな時代。

いつも通る道に『石川進音楽学院』の看板がしつこく貼ってあった。『プロ科、アマ科』があり、その時失恋したての私は、日頃気になっていた看板の住所を辿っていた。駅裏の寂れた感じの場所のビルの一角が、音楽学院だった。




それでも私はそのビルの階段を登った。何かに取り憑かれた様だった。

寂れたビルの一角とは言え、アイドルを目指す少女達が、アイドルっぽく佇んでいるその姿は、可憐であった。堀内孝雄によく似た先生が指導者。石川進に経営を任されたマネージャーが2人。

私は夢の様なその世界に足を踏み入れたのだ。

既に、モデルとしてローカルデビューしている子が何人もいた。その子の写っているカタログなどを見せて貰った。あまりの可愛さにクラクラした。

しかし、意外と彼女たちは気さくだった。私は、既にとうが立っていたので、彼女たちを育成する為の月謝投入要員だったのかもしれない。

それでも私は月給を音楽学院に注ぎ込んだ。何でもいいから、陽の目を見たいと変な欲望が出ていた。

8万円の月給のうち5万円投入していた。


歌のレッスンは課題曲と個人曲。個人で歌う曲は、自分で選べる。私は、「横須賀ストーリー」を選んだ。家でも近所迷惑な程歌い込んだ。親は呆れていた。
歌と共に、詩吟、ヨガ、ジャズダンス等も習った。全て歌手になる為に必要な修行と私は頑張った。毎日毎日通った。

その頃活躍していたのは松田聖子である。その時もう、彼女より年上だった私は何を目指していたのだろうか。

アイドル予備軍の少女達の言う事には、頑張っていると、必ずマネージャーから励ましのハガキが自宅に届く。らしい。

意外だったのは、年なんか関係ない。と、マネージャーが私に教えてくれた事だ。
「年齢なんかどれだけでも誤魔化せる。顔も関係ない。努力が1番なのだ!」

それが証拠にキラキラした如何にもな少女達と少し離れて大して可愛くもないのにツンツンしていた少女がいた。
その子が、オーディション要員に選ばれて、あるオーディションを受けたら見事に何かの賞を取ったのだ。
その時マネージャーが言った事が本当だったのだと私は確信した。

音楽学院には私より年上の人がいた。キャバレーとかクラブで職業歌手として活躍していた。学院側は、私をそう言う路線に乗せようとしてくれていた。ピアノが弾ける私に弾き語りを練習する様勧めてきたのだ。八神純子が流行っていた。

その頃から頻繁にマネージャーから私にもハガキが届く様になっていた。
その内、高級中華料理店などにもアイドル予備軍と共に連れて行って貰ったりした。


アイドル候補の超エリートが、東芝レコードのオーディションを受ける事になった。この中で、超エリートと言っても、東京のそんな有名なオーディションに、いくらなんでも受からないだろう。と、思っていたが、なんと、彼女は見事にオーディションに合格した。たった1つの枠を彼女は手にしたのだった。

いつも、学校帰りに机に突っ伏して寝ていた彼女。しかし、張りと伸びのある歌声は、今まで寝ていたとは思えない美しさだった。彼女もまた、努力の人だった。

私はと言うと、なんと失恋した相手とヨリを戻して、歌手になる意欲はいとも簡単に消え去ってしまったのである。

高級中華料理店に連れて行って貰った辺りで、私は諦めていたのだ。月謝、もう出せないって。

勉強するには金がいる。私にはもう、出せる金が無かった。


それでも、私は今でも、あの世界を忘れる事はない。


東京で見事に歌手デビューを果たした彼女。

そこにいた少女達は、とても友達想いで素直な子達だった。他人なんか疑い出したらキリが無いが、彼女達はともかく、そんな事より、アイドル歌手を目指していたのである。


なかなか良い青春の思い出である。稀有な体験だった。








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レッツゴーヤング サンデーズ出身


後年、同じサンデーズ出身の天馬ルミ子と私が出会うとか、予想もしない出来事だ。