何かに影響され続けている人生、過去の文章を読み返してみたが、大層ひどいものだな、何かしらに陶酔し続け、その対象が何よりも正しいと思っている、それが正義だと思っている、その過程を経て全てが今の私。切り離してしまいたい一部。今、現在こうして文章を書いているのもそう、本当に、自分の意思か?

 

 

 吸収し続けることが恐らくは好きな方で、何かを好きだと思い込むと縦に穴を掘り進める、誰に命令されたわけでもないのに、追い切れていないと追い詰められる。そして、自分は誰よりも知識がなくて不真面目だと結論づけ、投資をせず、安価に提供されているものを恥ずかしげもなく享受する図々しい人間だと悲しくなる、そう、勝手に。様々な形態のコンテンツを、様々な場所で様々な方法で消費できるようになってきたこの世の中(特に、この2、3年は、それが進化してしまった)、需要側が次々と求める大喜利に、供給側は必死に応え続けている、方法が増えたのはそれだけ舞台の数が多いということ、狭い範囲でも十分に戦えてしまうということ、世の中大半の人間が知っているスターが生まれにくいということ。みんなが誰かのスターになれる、誰もが知ってるスターはどこに行っちゃったのかな。

 

 

 ベン図の重なりがSNSを通じて増えていくことで、消費者はいつ何を求めても共感できる人間を見つけられるようになった。すなわち、これは孤独な人間を減らしているかのように感じるのだけれど、どうやら寂しさを強く感じる人間は増えているようだ。それは、重なりを注視するあまり、他の視点を受け入れない構図になっているからじゃないか、と思う。自分とは違う部分を知って、そこを受け流してからが人間関係の始まりだと、私は思うのだけれどもね。好きな人間と自分の重なっている部分しか見えていない状態で、ある時に隙間から、その人の別の人間との重なりを見てしまった瞬間、自分への特別感を失い、それが「自分の排除」に感じてしまう。本来ならば、そいつにはそいつの人生があるのよ、というだけの話、人間なのだからたくさんの面があるのよ、というだけの話。そりゃあ自分が誰かの特別でいたいという気持ちも、わかる。でも、特別になりうるには努力が必要なんじゃないか、と思う。相手はどこまでいっても他人だ。私の場合、何事もまずは少し、受け入れることができれば、それに近づけるんじゃないかと実践してみている。相手の言葉を聞き、相手の好きなものと嫌いなものを知り、なぜそう思うのかを聞いた時「そういう考え方もあるよな」と受けとめている、それはもちろん、誰に対しても。だって、違う人間じゃないか、相手は私の知らない幸せや苦労を経験してきている、それに優劣はないのよ。まあ、うまくいっているかどうかは知らんけれど。

 

 

 世間に注目されていて、私と同じくらいの年数を生きている人間たちへ、いつも嫉妬してしまう。自分が何者でもない論、これはいつも私の中にあるものだが、いい加減外に出せないものか。私が誰かを好きになる時、それがどんなに遠い人でも(たとえ次元が違っていても)、その対象と出会った時、どうすれば私に興味を持ってもらえるかを、まず考え努力してみる。自分がどういう人間であれば対象と対等でいられるのか、それは、好きになる時点で対等でないと思っている証だ。私に於いて、好きになるということは嫉妬することと近い。私自身は、他者から好意を向けられる対象でないと常日頃感じている、だから私は私が好きなのだけれど。



 追いかけるのが好きなのかもしれない。何かを好きであると表現するのが苦手で、言葉にできるように成ってきたのはつい最近だ。それが楽しくて仕方ない。なあ、これが本物の20代後半の人間なのよ。あまりに今更で、稚拙で、うまく成長してこれなかっただろ。でも、おとなになれよ、と言うお前らの描いた「おとな」は、つまらなそうだ。心配ありがとうね。

 誰も見ていない文章を書こう、そう、誰も見ていないのだから何も考えることなんかないのよ、ツラツラと綴ればいい、そういうものでしょう。承認意欲の流行っている近年じゃぁそういった何かしらをこうやって残すこともないのかしら、この媒体にも、誰かに見せるために頑張る用のツールが増えたなぁ、と、思う、それって、本当に必要なんだろうかナァ、と、思う。人に見える状態のものって、必ずしも頑張らなきゃぁならないの?、世知辛い。

 

 男だ女だと、二種類に分けることが憚られる今現在、みんな割とそんな先入観を押し付け押し付けられ生きてきたんだなぁと感じる、私も例外ではないのだけれど。少しだけ成長した私という生き物、ソーシャルネットに落ちていた某診断をやってみた。私はXジェンダーというものらしい、なるほど、と思った。こうした結果をみるのは楽しい、私に対する肩書きが増えて行く様な感覚、肩書きは、増えれば増えるほどイイ。私自身が一面だけなんじゃぁつまらない、知識、概念、いくら所持したってひとつも無駄にならない、良きも悪きも、そう。これから出会う誰かしらに共感できる材料は、たくさんあった方がいい、その方が、楽しいでしょう。

 

 私の内面的な性別は、先天的にこうだったのか?と考えてみる、なんだか違う気もしている。「決定」とされるのは幼い頃から苦手だった、ピンクと青に分けられる感覚が苦手で、水色とオレンジが好きだった。機械仕事を見たり手芸をしたり楽器を弾いたり服を選んだりするのが好きだ、でも、性別で分けられるナニカ達は、やっぱり苦手だ。身体的性別に乗じた押し付けへの反抗だったのではないか?性別に寄る評価が気に食わなかったのだ。「その性別で何某をやっていることがすごい」と言われるのは、本当に実力に基づいた評価か? 下手なら下手でいいだろ、無理に褒める語彙を使った周囲が私の性別を形成した、ジェンダーの云々は、後天性でもありうるんじゃないだろうか。

 

 茶店の店主と話していた、男性的女性や女性的男性のこと、そういったラベルが増えたことによって、「〜的な人」が不要に分類されてしまう、ということ。分類は固定観念を生む、〜的な人はこういうタイプだからこうあるべき、こう接するべき、こう思っているだろう、とか、なんなの? 肩書きを増やしたいとはこういうこと、相手が迷えば迷うほどいい、自分が誰かに掴まれない存在であればあるほどいい、括るなよ、不本意だ。個は個であって、分類の種類が増えたからと云ってそれは貼っていいという承認ではないことを忘れるな。そして、私をわかりたいなら私自身に聞いてくれ、いくらでも、お話をしよう。

 

 名前をつけるのは安心する、理解した気になるから、自分の身の振り方を考えやすいから。だけどさぁ類するってことは、あくまで「自分が必要としている知識」なんだよ、自己診断は構わない、だが誰かが誰かに提示するのは違うんじゃぁないか、そんなのは望んでるもの同士でやってくれ。気の置ける友人に癖や悪習を指摘されるのは好きだ、灯台下暗し、自分じゃ分からない自分が多いことなんて誰でも知ってる、そういうことだよ、望んでいるかいないかって、そういうこと、なんだ、面倒くさいなぁこいつは。

 

 

 音楽に恋をするという話、それは対象を好きだという想い、そこに性別はないでしょう、歌い手の声質の話をしているんじゃぁないのよ、私の中では人を好きになるのもそれと同じで、その人間が好きかどうかの話、もっとこの人間を知りたいなぁと思ったかどうかの話。友人に、私の恋愛対象に男女は関係ない、と、ふとこぼした時に、急にカミングアウトされて驚いた、と言われたことがある。それが「カミングアウト」だと意識していなかったので、驚かれたことに私も驚いてしまった。異性恋愛が多い(ように見えている)世界であることは認識している、だから説明するためにこぼした言葉だったのだけれど、そうかぁ、そんなに、驚くことなんだな、不思議。

 

 分けた人、分ける人、そんなのもなく、各々が各々であって、もっと自然で、もっと自由で、お互いが共感して、それが一部であることをわかってて、そんなのって、そんなに難しいのかな、あなたとわたしは、同じ生物で違う生き物なんだよ、あたりまえだとおもってるんだけどな。違う生き物だから知りたいんだよ、だから会話をするんだよ、わかっておくれよ。

 

 私の好きな人たち、みんな私の予想だにしない行動をしてくれ、そのほうがきっと、面白いからさ。

 

 

 




  あなたの夜は、何、ですか。私の夜は、ヒタスラに消費されています。何かに、なんだろう。もっともっとと思ってるのかなぁ、難しい、また、難しくなっているのでした、言葉は何も出てこなくなる。



  作ることを難しくするのは、時間、脳の使うところをサボること。あと少し、と思うだけで、進まないのだから、千里万里と変わらないよね、ネェ、作り方を忘れたんだね、みんなが恐れているのは、恐れたことも忘れること、いや、忘れてるんだな、いいわるいの観点がさぁ、もう低レベル、それが、今の常識、ってやつ。



  もう、ずっと考えてる、一年くらい、ずっと。私の好きなものを集めたいだけなんだよ、それだけなのに、うまくいかないんだね。