博物館の展示は、建物内だけではありません。

 ヨーロッパのバルカン半島にあるボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ博物館は、外壁面の写真展示が大きな役割を果たしていました。

 

道路の角に立つサラエボ博物館(正面にMUZEJ、斜めになったMUSEUMの字が見える)

          (以降、写真は全て筆者撮影)

 

 今から110年前の夏、1914年(大正3年)6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者とその妻が、サラエボで銃撃されて亡くなりました(サラエボ事件)。このことが発端となって、一か月後の7月28日、第一次世界大戦が始まります。

 サラエボ博物館は、その事件現場前の建物を使用しています。

 博物館に近づくと、その外壁に貼られた写真を使って、ツアーガイドが観光客にサラエボ事件を解説していました。

   

事件現場前の人々 

 

 

 

ツアーガイドによるサラエボ事件の解説                        

 

 写真が事実を伝え、人が肉声で説明します。文字による説明は、ありません。

 この事件については、民族や立ち位置によって評価が変わります。旅行グループの人にあわせて、ガイドは説明を変化させることができます。

 文字情報がなく、説明が語り手に委ねられているのは、その表現の「ゆらぎ」を可能にしていると私は思いました。

 

  

外壁の写真を拡大(皇位継承者は車内左端の妻の隣席、左から3人目)                 

 

同左(右が皇位継承者、左が妻)

 

 この写真の撮影後に起こった事件を知っている者として、博物館の外壁展示に心が奪われる思いを感じました。

   

 次の写真は、人々が去ったあとの博物館前の風景です。歴史ある町の景観に博物館の建物が溶け込んで見えます。この場所は、今も昔も旧市街へと続く主要な道路に面しています。

 

博物館前から見た旧市街方面;歩道には右上写真の博物館入口の銘板と同じ色のプレート

 

 そして、博物館の入口には、黄銅のような色の銘板があり、同じ色のプレートが歩道に光って見えました。

 

皇位継承者らの乗った車の車輪の場所を示す4枚の長方形のプレート(直線でつないで表示)「1914」の文字の入った正方形のプレートが、道路寄りにある

 

 博物館側から見ると、4枚の長方形のプレートが並んで見えます。これは、皇位継承者らの乗った車の車輪の場所を示しています。4枚のプレートの内側の道路寄りには、正方形のプレートが見えました。

 表記されているのは「1914」のみです。事件の日付けはありません。

 事件当日だけではなく、「その後」をも意識していると私は感じました。

 

 サラエボ博物館内には、この地がオーストリアに併合されてからの人々の暮らしの変化と、事件に関する展示があるそうです(見学できていないため、博物館内の展示情報はガイドブックの記載によります。)。

 館内展示・博物館外壁の写真・事件現場のプレートが連続性をもって展示効果が生じていることでしょう。おそらくは、館内展示での事件についての表現は、細心の注意が払われていると思います。

 

 博物館前の歩道は、旧市街へ、歴史的建造物につながります。

 

 

緑色の丸い屋根の旧絹取引所(現在は歴史博物館)と前を走るトロリーバス

 

 16世紀にオスマン帝国により建設された絹取引所の建物は、歴史博物館になっていました。新石器時代以降の遺跡出土品やサラエボの町の大きなジオラマが展示されています。通史として、サラエボの歴史を知ることができました。

 

 旧市街を町歩きすると、新旧のイスラム教のモスク、セルビア正教会、カトリック教会を見る事ができます。

 そして、夕方には、町の中にイスラム教の祈りの声がひびきました。

 次に鐘の連打、最後に高い音域で転がるようなメロディアスな鐘の音が鳴りました。

 サラエボは、単純とはいえない歴史を背景として、多様な文化が重なる町でした。

 事件についても、その後の悲しい出来事についても、一旅行者に過ぎない私には、語り得ないものと思いました。

 

異なる角度から見たサラエボ博物館(写真右端:MUSEUMの文字と窓枠内の写真)

 

 大きく、重い歴史の現場は、騒がしい場所にならず、品格が保たれていました。

 それには「博物館の存在」が寄与していると、私は直感しました。

 外壁展示は写真のみで、文字がないのが良い。

 サラエボの人々の見識を感じました。

 「この場所が博物館で良かった……博物館の外壁の展示を見ただけでも深い意義を感じた。」と強く思ったのでした。

 

 (齋藤岳)