青森が生んだ昭和時代の大歌手 淡谷のり子(1907~1999年)の生家は、現在の青森県立郷土館(青森県青森市本町)の近くにあった「大五」阿波屋という大きな呉服屋です。明治時代、市内で有名な商家でした。店には、30人を超える奉公人がいたといいます。

 本家は、現在の安方付近(現在の観光物産館アスパム近く)にあった「大世」阿波屋です。郷土館が所蔵する当時の市内の様子を建物の外観とともに詳しく描いた絵地図『青森実地明細絵図』(明治25年・1982年、複製)の中でも、「大世」は紹介されています。

 

 

 絵図の右端下から三段目、タテ3.5㎝、ヨコ7.7㎝ほどの大きさの枠内に描かれていますが、その部分を拡大してみてみましょう。

 

 

 人力車が行き交う通りに面した店の中の様子や「大世」とある蔵の建物の存在がよく分かります。「大五」もこれに近い店構えだったかと思われます。

 淡谷家の先祖は、『青森市史』(1955年)等によると、淡路国の出身で初代は源四郎といい、奉公先の船で航行中に竜飛沖で遭難し、その後、青森に住み着きました。源四郎ははじめ魚を商い、「阿波屋」と称して、名を清蔵と改めました。三代目清蔵の時に呉服を扱うようになり、四代目で呉服商専業になったといいます。

 五代目清蔵は、明治時代半ばから大正時代にかけて青森政財界で活躍しますが、のり子の祖母まつは、五代目清蔵の妹にあたります。まつは、元弘前藩士の金蔵を婿に迎えて分家しました。これが「大五」です。

 のり子が生まれた頃、阿波屋は全盛を誇りました。市内中心部には、「大」の字をつけた分家が蔵の数を競っていたといいます。のり子の父・彦蔵が「大五」を継ぎ、彼女は跡取りとして大切に育てられました。

 明治43(1910)年の青森大火で「大五」も大きな被害を受けました。彦蔵は、店の再建に必死に取り組みます。その状況を具体的に示す当時の新聞広告を見つけました。明治45年1月の初売りを宣伝するものです(東奥日報、明治45年1月1日付、郷土館蔵)。

 

 

 「壬子と大五呉服店」という見出し、1月2日から6日まで5日間、「景品相添へ破格の大勉強を以て大売出し仕り候」と大きく載り、新しい商売方法を模索していたという彦蔵「大五」の努力がここにあるような気がしました。しかし、この熱意は、時代の流れを乗り切ることはできず、店は人手にわたり、のり子達の生活は大きく変わってしまうのです。

 青森県立郷土館では、青森県立美術館コミュニティギャラリー(青森市)で、令和6年2月17日から3月3日まで、「ドラマ『ブギウギ』と淡谷のり子展」をNHK青森放送局、青森市教育委員会と共催で開催します。のり子生家に関する資料や青森の人々との交流を伝える写真等を出品予定です。

(太田原)

 

(詳細はこちらへ)

 

NHK青森ホームページ・イベントインフォメーション「連続テレビ小説「ブギウギ」と淡谷のり子展~茨田りつ子のモデル・淡谷のり子~」

 

(https://pid.nhk.or.jp/event/PPG0363604/index.html)