津軽から飛んだ | 青森今昔物語

青森今昔物語

戦災により失われた青森市の記憶。


青森今昔物語-青森号離陸の刹那

 明治37年(1904年)5月3日中津軽郡船沢村(現弘前市)の富農、久保田勇太郎中郡郡会議員を父として生まれた久保田太は、弘前中学校在学中の大正10年(1921年)家出同様に上京し、東京飛行機練習所、伊藤飛行機研究所で学び、大正11年10月、三等飛行士の免状を得ました。
 
 大正12年5月6日、青森弘前間の郷土訪問飛行のため弘前練兵場を飛び立った久保田飛行士操縦のサルムソン機(乙式1型偵察機)は離陸直後、左車輪を落として練兵場に片足で緊急着陸しました。


 訪問飛行は延期となり、再挑戦となった8月5日中島式五型「青森号」は11時25分弘前練兵場を離陸、11時37分青森市上空に到着、海岸線を合浦公園、野内上空を飛行して、11時45分青森練兵場に群衆の歓呼に迎えられて無事着陸しました。


 再挑戦に成功した久保田飛行士は午後3時25分、青森練兵場を離陸、市内上空から松木屋、ラムネ会社、高級映画協会の宣伝ビラを撒く4分間の飛行を実施、翌6日11時58分、八戸に向けて飛び立ちました。


 八戸市白銀海岸の砂地を着陸場とした「青森号」は砂地に車輪が食い込み転覆大破。無傷だった久保田飛行士は、飛行仲間から借用した中島式五型機で、8月19日五所川原・金木訪問飛行のため弘前練兵場を離陸しましたが、天候不良のため弘前に引き返す途中エンジンが停止、弘前練兵場に滑走、転覆大破しました。


 数々の事故にあいながら無傷の久保田太飛行士についたあだ名は「不死身の太」


 翌13年10月には浜松で墜落事故を起こし、14年には飛行聯隊への入営のため自前の飛行で立川に向かう途中不時着陸。その後、日比谷のお堀に墜落するなど墜落回数20回「墜落王日本一」の称号を得ました。


 月島飛行学校、御国飛行学校での教官を経て、九州飛行機テストパイロットとなった久保田飛行士は、終戦を北京の陸軍飛行場で迎え、無事帰国、戦後は三沢市に居住しました。


 弘前市出身の作家長部日出雄は、昭和48年久保田太をモデルにした小説「津軽から飛んだ」を発表しています。


 修理不能で廃棄となった「青森号」はのちに弘前の青森県立工業学校に寄贈されました。