♪ いざ来いニミッツ、マッカーサー | 青森今昔物語

青森今昔物語

戦災により失われた青森市の記憶。

$青森今昔物語-菊池桟橋
 昭和20年(1945年)8月15日昭和天皇によるポツダム宣言の受諾が国民に告げられ、いわゆる太平洋戦争はわが国の敗戦となりました。

 合州国太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥は、アメリカ領アリューシャン列島から、ソビエト連邦ウラジオスットクまでの海上交通路を確保するため、帝國海軍によって封鎖されていた津軽海峡の機雷掃海と武装解除を目的として、アラスカ北太平洋海軍部隊指揮官フランク・ジャック・フッレチャー中将(1885-1973年)に大湊・津軽海峡地区の緊急占領を命令します。

 それはかつて帝國海軍最盛期の機動部隊と直接対峙し、珊瑚海海戦とミッドウエー海戦でそれぞれ空母一隻を失っていたため、機動部隊司令官からアラスカ勤務へと左遷されたフレッチャー中将に対するはなむけでもありました。

 北太平洋部隊旗艦パナミント以下、巡洋艦5隻、護衛空母6隻を基幹とする67隻の艦隊を指揮したフレッチャー中将は、9月1日大湊へ向けアダックを出港、8日大湊に入港、9日金井元彦青森県知事、陸軍第五十軍司令官星野利元中将、大湊警部府司令長官宇垣莞爾中将等日本側代表者を旗艦に招き、津軽海峡地区の緊急占領を宣言、ここに青森県の占領が開始されました。
$青森今昔物語-大湊国民学校前

 アメリカ艦隊の乗組員は、トラブルを避けるためアメリカ陸軍が来るまで上陸が禁止されていました。9月23日、護衛空母ネヘンタ・ベイの乗組みカメラマンは、大湊港内のクルーズを楽しむことにしました。

 大湊菊池桟橋には僅か一ヶ月前まで殺し合いを行っていた、始めて見る敵が群がっていました。それは日本側にとっても同じことだったのでしょう。そこには、かつてルイス・フロイスが見、アーネスト・サトウが目撃し、イザベラ・バードが出合った好奇心が高く、笑顔を絶やさない日本人の姿がありました。