「自分中心に生きるのはもうたくさんでしょ!」
と友人のF社長から言われたのは一度や二度ではないと記憶している。
20歳過ぎで結婚をし、繁栄と破産を経験しながらも3人の子供を、ある意味でとても素直に。ある意味でとても反(一般)社会的に育て上げた彼の言葉をそのまま受け取るでもなく、かといって反発するでもなく。頭のどこかでくるくると。ときおり考えることをしていたのは35歳くらいからだったろうか。
結婚を決めたとき。
僕は「この人をどんなことがあってもしあわせにするのだ」と静かに「こころ」の奥に気持ちを静めた。鎮めた。そして沈めた。
昨日。初めての子供を授かった。女の子だ。
男の子のほうがいいな、と思ったのはずいぶん前の一時期で。今はもうまったくどうでもよいことだ。
出産には朝から立ち会い。
母親の格闘と消耗の末に出てきたわが子が、出て来てすぐに想像以上に大きな声で「うぎゃー!うぎゃー!」と泣いたときには思わず涙が出そうになった。
さっきまで母親のお腹のなかにいたのが信じられない。
不思議な存在感だ。
看護婦さんに手伝ってもらい、初めてわが子を胸に抱いたとき。
僕は「この子をどんなことがあってもしあわせに守ってやらなければならない」と思った、いや感じたのは「本能」ではないか。
「こころ」に到達する前の。もっと根源的なもの。
細胞やDNAに刻み込まれている。「本能」もしくは「本質的なもの」
あたまで考える前の「直観的なもの」か。
お金をもっと稼ぎたい。出世して、社会的な地位も欲しい。スーパーカーを足にしたい。もっとモテてもいいんじゃない。などさまざまな欲。煩悩にまみれて今までは生きてきたのかもしれない。
これからの生活のなかで、これまでの「欲」たちがどこかきれいに居なくなってくれるかも知れない、というのも甘い幻想だろう。
もっと世界中を旅してみたい。
まだまだ青い自分は捨て去れていない。
それでも以前とは違う「なにか」があるのだ。
それは「うぎゃー!」という新たな誕生の泣き声とともに自らに湧き出た「本能」だ。
F社長からもう一度「だれかのために生きてみなさい」と言われることはもうないかもしれない。
でももう一度、そう聞かれたなら答えよう。
相手の目をしっかりと見て、無言と笑顔で「むふふふふ」と。。。。。


