「大塚国際美術館」に伺い多くの「陶板名画」を拝見いたしました!

   第10話はでは「寄木細工・だまし絵・

 

   「ストゥディオーロ フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの書斎」

   1476年頃 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

   イタリア・ウルビーノ 

   パラッツオ・ドゥカーレ(マルケ国立美術館)

   中部イタリアの丘陵地帯の小都市ウルビーノは「巨匠ラファエッロ」

   の生地でもあります。 この小都市が ルネサンス文化の中心地の一

   つとなったのは、ひとえに15世紀後半にこの町を支配した「フェデ

   リーコ・ダ・モンテフェルトロ」の存在に負っています。 彼は勇猛

   な傭兵隊長であり、また当時有数の教養人でした。 フェデリーコの

   居城「パラッツオ・ドゥカーレ」は「ルネサンスにおける最も重要な

   世俗建築」と云われますが、中でも興味深い部屋が「フェデリーコの

   ストゥディオーロ(書斎)」です。 書斎は、思索と瞑想の場として

   ルネサンスの知識人たちに流行しました。 また、その装飾で最も目

   を引くのは四方の壁面を覆う寄木細工です。 幾何学的な形態や静物、

   都市の景観などが描かれていて「トロンプ・ルイユ(だまし絵)」効

   果を見せています。 さらにその上部に描かれている「ホメロスやダ

   ンテ」など、古今の名士の肖像画も注目されます。

 

 

 

 

 

   「聖ヒエロニムス」

   1640年頃 マティアス・ストーム   

   オランダ・ユトレヒト中央美術館

   「だまし絵(トロンプ・ルイユ)」の一つ「歪んだ像(アナモル

   フォーズ)」と云うトリックアートの古典作品で、一見何が描か

   れたのか判然としない絵を 元の形に復元すると云う視覚遊びで、

   「円筒形」の鏡に顔が映るように適切な位置を探します。

   画面には、頭を強く押しつぶされたような「聖ヒエリニムス」が

   書斎で聖書の研究に余念がないところが描かれています。

 

 

 

   「皇帝ナポレオン一世と皇后ジョセフィーヌの戴冠」

   1805年~1807年 ジャック=ルイ・ダヴィッド

   フランス・パリ ルーヴル美術館

   この作品は、皇帝の座に上り詰めた「ナポレオン一世」の注文に

   よって制作された。 パリの「ノートル=ダム寺院」で行われた

   「ナポレオン戴冠式」で、「ナポレオン」が自ら戴冠した後に、

   「皇后ジョセフィーヌ」に頭上に冠を載せようとする瞬間が描か

   れています。 これほどの大画面を破綻なくまとめる技量は並大

   抵のものではない。 保守的な画壇での評価は分かれたが、注文

   主の「ナポレオン」は この絵の出来映えにいたく満足したと伝   

   えられています。

 

 

 

   「笛を吹く少年」

   1866年 エドゥアール・マネ

   フランス・パリ オルセー美術館

   「マネ」の代表作の中でも、単純な構図と 少年の鼓笛隊員と云う

   モチーフゆえに最も親しまれている作品のひとつ。 少年の制服   

   も 正面から光を当てたような顔も立体感に乏しく「ダイヤのジャ

   ック」のようだと揶揄されたのも不思議ではない。 当時として

   は異例だった平面的な構成は、日本の浮世絵の影響が考えられる

   が、左足を前に踏み出したポーズは「ギリシャ彫刻」のコントラ

   ポスト(体重を支える支脚と、そうでない遊脚の対比)を思い出   

   させる。

 

 

   「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

   1876年 オーギュスト・ルノワール

   フランス・パリ オルセー美術館

   舞台となっているのは当時モンマルトルで評判の店で、画家もそ

   の常連の一人であった。 画面右前方のテーブルを囲んで楽しげ

   に談笑しているのは、いずれも「ルノワール」の友人である。

   構図的には右前方の人物から左中景の踊るカップルを経て、その

   右奥のカップルへと我々の視線はジグザグ状に導かれて行きます。

   前景の表情の分かる人物の群れから、背景の簡略なタッチによる

   人物の群れまで、この庶民的な憩いの場に漲る幸福感、高揚感が

   画面に横溢している。

 

 

   「プージヴァルのダンス」・・・左

   1883年 オーギュスト・ルノワール

   アメリカ・ボストン ボストン美術館

   「プージヴァル」はパリ近郊セーヌ河畔の行楽地で「ルノワール」

   も その常連であった。 ただし この絵はパリのアトリエで制作さ

   れており、「ルノワール」が もはや外光主義に拘っていなかった

   事を示している。 主役は踊る一組の男女で、女性のモデルは 当

   時17歳の「シュザンヌ・ヴァラドン(ユトリロの母 としても知

   られる画家)」である。 彼女の着けている 微妙なニュアンスに

   富むドレスの白、その縁取りの赤の表現が印象的な作品である。

 

   「都会のダンス」・・・中央

   1883年 オーギュスト・ルノワール

   フランス・パリ オルセー美術館

   「田舎のダンス」と対を成す作品で、1883年の最初の個展に

   出品されて 大好評を博した。 1881年に イタリアに旅して、

   「ルネサンス」の古典美術に触れた「ルノワール」は、この旅行

   を ひとつの境として、それまでの「印象派様式」から 脱皮して、

   アングル風の明快なデッサン(形態)を特色とする様式に移って

   行きます。 初期の 震え動くようなタッチが消えて 平塗りが目立

   ち、人物の形態、輪郭にも曖昧さがなく、当時の標準的あるいは

   正統派の様式に近づいている。

 

   「田舎のダンス」・・・右

   1883年 オーギュスト・ルノワール

   フランス・パリ オルセー美術館

   「都会のダンス」と「田舎のダンス」との違いは、一言で言えば

   前者の洗練、後者の素朴と云う事になろうが、これはモデルの装

   いについてであって、絵としての優劣はつけがたいものがある。

   モデルの男性は 友人の「ポール・ロート」で、女性は「ルノワー

   ル夫人・アリーヌ」と考えられている。 女性が翳している日本

   の扇に当時の「ルノワール」の「ジャポニズム(日本趣味)」が

   うかがえます。

 

 

   「落ち穂拾い」

   1857年 ジャン=フランソワ・ミレー

   フランス・パリ オルセー美術館

   「ミレー」が43歳の時の作品で、この頃の彼はすでに農民画家 

   として十分な実績をあげていた。 「落ち穂拾い」と云うのは、

   豊かな農民が収穫を終えた後、貧農が彼らの土地でおこぼれにあ

   ずかると云うものであり、ここでも背景で山のような穀物を運ぼ   

   うとしている「持てる農民」と、前景の「持たざる貧農」との階

   級的な落差が強調されている。   

 

 

   「晩鐘」

   1857年~1859年 ジャン=フランソワ・ミレー

   フランス・パリ オルセー美術館

   「晩鐘(アンジェラス)」とは朝・昼・晩の祈り、あるいはこれ

   を告げる鐘の音をいう。 教会から響いてくる鐘の音をききつつ、

   一日の感謝の祈りを捧げる農民夫婦は「神なき時代」と言われる

   近代にあっても、農村ではまだ敬虔なカトリック信仰が生きてい

   たことの証でもある。

 

 

   「ラ・ジャポネーズ」

   1876年 クロード・モネ

   アメリカ・ボストン ボストン美術館

   「モネ」の「ジャポニスム」の作品の中でも最も顕著に、華麗に

   日本趣味の出た作品で、着物に縫い取りされた髭面の男と画家の

   妻「カミーユ」の愛らしい表情とが好対照をなし、後ろの壁に飾

   られている団扇の中の花魁が、着物を着たブロンド娘を驚いたよ

   うに振り返っているかのように見えるのは、「モネ」の巧まざる

   ユーモアであろうか。 幸せいっぱいの「カミーユ」であるが、

   この3年後わずか32歳の若さで世を去る事になる。

 

 

   「叫び」

   1893年 エドヴァルト・ムンク

   フィンランド・オスロ オスロ国立美術館

   「黒く青いフィヨルドと町の上には血まみれの舌のような形の炎

   がかかっていた。 友人は先を行き、私は恐ろしさに震えながら

   後に残った。 その時、自然を駆け抜けるような大きな、終わる

   事のない叫びを聞いた」(ムンク)

   斜めに走る欄干から生まれる、画面左奥へ収斂してゆく遠近法的

   な空間が、心理的な緊迫感を一層高めている。 画家の個人的な

   体験に重ね合わせた世紀末の黙示録的な世界である。 

 

 

   「生のダンス」

   1899年~1900年 エドヴァルト・ムンク

   フィンランド・オスロ オスロ国立美術館

   ここで云う「生」とは「生命」と言い換えられるが、中央で踊る

   男女は夢遊病者であるかのように身体を揺らせているだけである。

   左には純潔無垢を象徴する白い衣を着た乙女が、踊る二人を期待

   に満ちた眼差しで見つめている。 彼女のわきに咲く可憐な花は

   青春の初々しい生命の象徴であろうが、一方右端の喪服のような

   黒い衣の女性は、生の空しさ、愛の悲しみを思い知ったかのよう

   に、踊る二人を力なく見ているだけである。

 

 

   「マリリンの二連画」

   1962年 アンディ・ウォーホール

   イギリス・ロンドン テート・ギャラリー

   商業美術の世界で成功を収めた「ウォーホール」は、1960年代

   からスクリーンなどの転写技術を用い、大衆化社会の同一のイメー

   ジや偶像性を反復する作品を制作し始めた。 1962年「マリリ

   ン・モンロー」自殺のニュースを聞き、すぐにこのシリーズを開始

   した。 この二連画は、あたかも大衆化社会のスターの持つ栄光と

   死を対比するかのような、華やかな色彩の左のパネルと、右のモノ

   クロのパネルが際立った対照をなしている。

 

 

   「ゲルニカ」

   1937年 パブロ・ピカソ

   スペイン・マドリード レイナ ソフィア国立美術館

   1937年「フランコ将軍」の要請で、「ナチス・ドイツ軍」は

   「スペインの古都ゲルニカ」を全滅させた。 

   これに衝撃を受けた「ピカソ」は、この作品を「パリ万国博覧会」

   の壁画として 僅か一か月で仕上げています。 

   直接的に爆撃を想起させるものは 何も描かれていないが、「ミノ

   タウロス 母と子 曲芸師」など彼の好んだ主題全てがネガティブ

   に反転させられている。 

   それ故に、人間の暴力と悲劇に対する普遍的で強烈な反対の意思表

   示が伝わってくる。