京都「葵祭」 京都御所から下鴨神社の儀式 | 癒しの京都案内記

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京都では平安時代以前から行われてる

 

「葵祭」を 見に行きましたわ

 

御所の画像は 以前アップしたものです

 

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今日は 約1時間御所での「路頭の儀」後

 

 

若葉繁る 糺の森(ただすのもり)の奥へと しずしずと

 

行列が下鴨神社に到着し伝統の催事「社頭の儀」が

 

午前11時40分より行われました

 

 

 

ここ御所での「路頭の儀」

 

 

 

8年前の斎王代

 

 

 

 

 

葵祭は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の例祭で、古くは賀茂祭、または北の祭りとも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていた。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべての葉で飾るようになって、この名があるとされる。

もともと古代より、賀茂神社の神紋として使っていた二葉葵(別名、賀茂葵)が更なる由来である。著名な徳川家の三つ葉葵の原型とも言われ、徳川家康の先祖である松平信光が賀茂朝臣を称していた事や、松平氏の出身地が三河賀茂郡松平郷でもある事から、『「三つ葉葵」も葵祭で有名な京都の賀茂神社との関連の深い』と述べる研究者も居る。実際に徳川家も葵祭を重視しており、徳川家茂は孝明天皇につき従って共に1863年に葵祭に参列している

 

祭の起源と沿革は、欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になった

源氏物語にも、葵祭の斎王列を見物しようと、光源氏の妻、葵の上六条御息所が、車争いを演じた場面が登場する。 それから10年以上経ち、光源氏紫の上桟敷席から祭り見物する場面がある。ちなみに、紫の上は幼い頃。光源氏が勅使の役目を終えて休暇を迎えた際に、牛車の中で祭りを一緒に見物していた。

 

※ウィキペディアより

 

 

ふたば下鴨神社ふたば

「社頭の儀」

 

 

 

 

 

招待客はこの端から入ります

 

 

 

 

 

 

 

 

 

斎王」(さいおう)とは 賀茂神社に御杖代として仕えるために皇室から差し出された内親王女王のこと

 

 

 

1956年(昭和31年)に斎王にちなみ 斎王代と女人列が創設された 京都ゆかりの一般女性から選ばれ 斎王の代理ということで「斎王代」となる 唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用

白塗りの化粧をしお歯黒も付けてるそうですわ

 

 

 

 

 

斎王代を中心としてその周囲に、蔵人所陪従命婦女嬬童女騎女内侍女別当采女らの華やかで可憐なレディース

 

 

勅使(ちょくし)

天皇の使いで 行列中の最高位者で

四位近衛中将がこれを勤めるので近衛使(このえづかい)

とも言われるそうです

 

 

来賓客に 女優の 羽田美智子さんが来られてましたよニコニコ

 

晴天に恵まれ 厳かな儀式が 粛々と 行われました

 

団体客に外国の方が 大勢来て 以前より

 

世界的に有名になったんや~思いましたびっくりニコニコわはは

 

 

 

 

お土産の色紙 毎年違う絵が描かれてます音譜