
かといって、それで私の日常が変わったわけではない。キャンパスはくすんだまま夏の陽に色褪せ、相も変らぬおしゃべりの喧騒が漂っている。目にする色が禁色に、耳に入る音が亡国の音に転ずることはありえなかった。そして、季節がまた一歩遷っていった。
2年生のプレゼミ(予備演習)合宿は、6月に軽井沢にある大学のセミナーハウスで開催される。3~4つのゼミで30人ほどの単位で区分けされ、週の月曜に入って木曜朝までの前半組と、木曜から日曜の後半組に二分される。その年の私たちは中旬の後半組になったので、木曜の昼頃、中軽井沢の星野温泉近くにあるセミナーハウスに到着した。
もともとは、本格的なゼミは3年次からの2年間とされていた。3年生は古典の精読輪講を行い、4年生は先生と協議の上テーマを与えられて、卒業研究を論文にまとめる。プレゼミは、研究室の雰囲気になれる程度の位置づけだったという。でも私が入学した80年代半ば頃には、4年生のほとんどの時間は就活に奪われて、腰を落ち着けて卒論を書ける状態ではなくなっていた。世の中に追随してゼミ活動も様変わりし、単位の名称は2年生のプレゼミと3年・4年生のゼミナール(演習)と別立てにはなっていたが、お遊びめいたプレゼミは前期だけで、後期からはもう本格的なゼミが始まるのだった。
後期の前に一度だけゼミの変更が許されることもあって、合宿は萩尾ゼミだけでなく、近世文芸の山名ゼミと古代歌謡の細川ゼミも併せたモザイクで実施された。専攻を絞り込む前にもう少し幅を広げて、「国文学のおもしろさを味わってごらんなさい」というのだろうか。山名先生は温厚なおじいちゃん教授、芭蕉の『奥の細道』の羽黒三山参詣を講じられた。細川先生はまだ女子大生といってもおかしくない講師になりたてのかわいらしい方で、『古事記』の衣通姫(そとおりひめ)の物語を教えてくださった。そして、私たちの萩尾先生は堤中の『逢坂越えぬ中納言』であった。
木曜日の午後は部屋割りや整理にあてたり、みんなで近くを散歩したりした。夕食は仕出しの洋食で、その後全体を集めて合宿講義の意義と内容が3時間もかけてみっちり説明された。「合宿は遊びではありません。缶詰めにされて勉強させられることなんです」と言い渡されて、講義の印刷物や提出レポート用紙が配布された。10時過ぎに温泉にもらい湯に行って、戻れば誰もがみんなげんなりしつつも、翌日の下調べにとりかかった。
金曜日は朝9時から奥の細道、昼1時から古事記、夕6時から堤中の3時間ずつの輪読と集中講義。この日は温泉に入る暇もなく、萩尾先生以外からの課題のレポート作成にかかりっきりとなって、夏の朝が明るくなった頃シャワーを浴びて、ベッドに倒れこむように眠った。土曜日も午前と午後それぞれ3時間の課題レポートの講評添削が行われ、新たに提出レポートのテーマが与えられた。所属するゼミの先生からの課題レポート講評と提出テーマは帰京後それぞれのゼミで行われ、合宿に参加した3ゼミによる提出レポートの合評会は夏休み直前にキャンパスで開かれるのである。
土曜の夕方、私たちは「やっと終わったね」と口々に言い合ってお互いを慰めた。時間としては短いが、これだけ濃縮された学問に向き合うという時間をもった体験はみんな初めてだったから、満ち足りた思いと解放感で打ち上げパーティは弾けた。パーティは仕出しのオードブルとゼミの幹事たちが買ってきたアルコールもふんだんにあって、あられもなく盛り上がっていった。