裁判員制度で死刑回避・・・私はこのブログに小説らしき物を書いて残している。その中でも裁判員制度で死刑を回避させている。ただし、刑期200年といった刑をその小説では下している。
その小説は 仮想世界の世界観の設定と言うタグに分類された中に3回目辺りからスタートしているが完全な小説化し始めた為に途中でやめている。その中で死刑に対する裁判員同士の意識の違いも描いて死刑論者と死刑回避論者とがぶつかるシーンも書いた。ただの空想の話なのだが、書く上での結論は最初から私は100年を越える懲役と言う判決が下る事を前提に書いている。何故なら、元々海外を見るとそういうケースが多いからだ。懲役刑は重くなる傾向はあるが、死刑はなくなり易い傾向がある。そう見たために、小説内では多くの人が死刑と見ていた被告に対して、死刑を行わずに済ませた。その時にあえて牧師と連想されるような人物も出し、私なりの刑の理論を書き足した。キリスト教は否定しながらも最後には死刑廃止の前提には宗教なり哲学なり何らかの死刑回避の為の理屈が必要になるという話だ。そのために宗教による生死の理論の一端を小説では書いている。刑期500年といった刑を日本人が見て馬鹿らしいと思うだろう。しかし、西洋人は死刑のほうが馬鹿馬鹿しいと思うはずだ。これは宗教をもつ国なのか、宗教を持たない人の集まった国なのかの違いだ。
そして、この小説を書く事で、私は宗教に関わるような内容も書くようにし始めた。それは、そうする事が必要だと思い始めた為である。実は仏教に関して余り書く気が無かったのは、たまに書く事だが、仏教の思想には陥り易い罠があって、それが、性善説と呼ばれる認識なのです。これが元でインドでは戦争により仏教が滅びました。ある意味では性善説の限界というか、性善説に囚われて、仏教が性善説でも、性悪説でもありどちらでもない事を忘れた臆病者が間違った解釈で国を滅ぼす道を選択したためです。その為に一度は武士道が必要なのかと考えましたが、青山繁治氏の言う武士道には、明らかに青山氏の持つ、武士道とは違う覚醒から来た視点が含まれています。
武士道とは死ぬ事と見つけたりを、武士道とは誰かの為に死ぬ事と見つけたり。という内容にしても氏の話の中にも宗教哲学の思想と同じ思想が元になっていると感じる部分があります。従って彼の言う武士道は武士道しか知らない人には異質な物と移るかも知れません。しかし、彼の言う武士道は、恐らく江戸時代等宗教や、中国の文学などに触れた武士の道に比較的近い思想だろうと私は思っています。何故なら、江戸時代は無宗教の武士はいませんでしたから。
そんな事もあって青山氏の言う武士道の思想が必要だと思う事は今も変わりませんが、仏教はそれも含むものと考えています。話はそれましたが、生死を真剣に考えた時に哲学が必要になります。裁判員制度を機能させるためには、宗教観が必要になるでしょう。そして、仏教の宗教観こそが日本人を日本人たらしめてきた根本だと思います。裁判にあたり、日本らしく裁判に関して僧侶の意見を聞くような制度を作ってみてはどうだろうか?
ちなみに、仏法では、宗派によって違うと思いますが、バンムラビ法典や日本の仇討ちを基に考えれば、死刑はなくなりません。今回の刑の場合は、死刑台のSWを遺族が押す事を認めるか認めないかと言う判断になります。