少し前になるけれど、9月17日札幌市主催の(?)「能」のワークショップが始まった。
夏に、広報で見て、すぐに申し込んだ。
広報では、月1回(計4回)のワークショップがあり、「高砂」という曲を1月に発表するという内容しかわからなかったけれど、珍しく迷いなく「参加したい」と思って、申し込んだのだった。
予定に反してギリギリの時間に到着すると、スタジオには少なくとも30人以上の人人人。
私より若そうな人の集団あり、アラカンと思しき着物の女性おり、一見して多彩な感じ。
そこに出てきたのは、私と同年代~年下に見える先生。
話自体、同年代~年下の調子で、「若いなぁ」と思えるところもあり、気楽でおもしろかった。
まず、「能」について、歌舞伎や狂言の話を交えながらその違いを対話式ですすめ、「型」のはなし、舞っているときの心のありようなどを伺った。
中でも「伝え教えられる型に集中して、舞う」ということが新鮮だった。
つまり、ある型を表現するとき、その型に内在するであろう感情を表現しようと努力するのではないということである。
このことは、後日NHKで細川護熙が語る「人物伝・白洲正子」(第3回)で紹介されたエピソードと重なる。それは、マサさんが演じる役の思いを心に描きながら舞うと、師匠が「型」に集中するよう促したというエピソードである。
(細川藩お抱えの能楽師の家系にある人の舞いを、マサさんはホンモノの「能」と感じ、一方で女が女形を演じることの不可能性に直面して能をやめたということだった。)
無心に「型」を演じるというのは、通常の演劇とは、異なるように思う。
通常の演劇では、役者個々人が、各々の役柄の思いを考え、それを具現化するのが「演技」。
実際、普通の人間の行動を考えてみても、なにがしかの心情が、行動の原動力になっているとみるのが普通である。
その意味で、「能」はものすごく不自然なスタイルだと言える。
しかし、「能」の不自然さは、観客の感想の自由度を広げている。
演技に込められるはずのさまざまな感情が、すっぽり抜かれるわけだから、その演技、その型の意味を敷衍させるのは鑑賞者個人だけだからだ。
映画でも小説でも、多義性が好まれるご時世にあって、1つのパターンが鑑賞者によって異なる理解を生むというのは、興味深い話だと思う。
もうすこし、「型」については、考えてみたいと思う。
話の後は、高砂の一場面の舞と謡の実演。
はっきりいって、「なんかよくわからないけど、なんかすごくかっこいい」と感じた。
よくよく考えれば、以前、万作・萬斎の狂言を見たときに、万作さんの演技に比して萬斎さんに感じた「荒っぽさ」や「かたさ」とおなじようなかんじはあったけれど、ともかくも「かっこいい」。
謡も、「なんだろう、なんだろう」と聴きたくなるような謡だった。
たった2時間弱で「あんなふうに舞えたらいいな」「あんなふうに謡えたらいいな」と思えたのが、不思議だった。
((さいきん、そういう気持ちになることがなかったな))とも思う。
次回以降が、楽しみな企画だった。