曽根幹子さん・ゼミ生と共に
 

 NHKラジオに朝4時からの「明日へのことば」という番組があります。 

 それを若い人の目に留まるかと思い、書き起こしされているブログ

『明日へのことば』、そのブログをもとに編集しました。

2020年8月13日木曜日

 

 曾根幹子(広島市立大学 名誉教授) 

   ・【戦争・平和インタビュー】「未来を奪われたオリンピアンたち」

 

  大学で地域スポーツの振興などについて研究してこられた曽根さん、現在67歳。ご自身も走高跳の選手として、1976年のモトリオールオリンピックに出場したオリンピアンであります。曽根さんは、6年前から戦争で命を落とした戦没オリンピアンについて調査を始めました。遺族の元を訪れ、オリンピック後の生活や出征前に家族に残した言葉、戦地から送られた手紙や遺品などについてつぶさに調査を行ってきました。 オリンピックを通じて世界中のアスリートと交流し、世界の国々の様子を目の当たりにしてきたオリンピアンが、あの戦争をどのように見つめ、どんな思いで戦地に向かったのか伺いました。

 

紹介の後、お話が続きます。

 

 最初にオリンピックを見たのは、1964年の東京オリンピックで、こういうところで一度立ってみたいと思いました。1976年のモトリオールオリンピックに出場しましたが、走高跳で1m70cmという最初の高さを3回目でクリアして、次は跳べなくて予選敗退でした。本当のオリンピックの面白さは、各国の人達と肩を組んだり、写真を撮り合ったりあの閉会式にあるのではないかと思います。

 

 戦没オリンピアンを調査するきっかけは、最初広島市が被爆70年史を作るということで、書いてくれないかと言われました。 これを調べたことがきっかけで、戦没オリンピアンを調査することになりました。忘れてはいけないことを忘れているということで、それを紡いでいかないといけないのではないかと思いました。

 

 ドイツでは、1980年の初めから世界戦没オリンピアンの追悼をしていまして、その中でちゃんと定義されていて、戦争や暴力行為で亡くなったオリンピック選手という定義でした。日本では、原爆投下でその後闘病で亡くなった人が入るのかどうか、ということに関しては、戦争が原因で亡くなったということで戦没オリンピアンに入るということでした。栄光の足跡は残しているが、出征してから後のことが分かっていない人も結構多かったです。軍歴証明書が非常に重要になるということが分かって、それを頂くには3親等以内でないと申請できないので、いろいろご家族とあって話を聞くことができましたが、戦後何年もたっているのでご遺族の方が少なくて本当に分からなくて苦労しました。

 

 広島県出身で5人の戦没オリンピアンをめぐる調査と課題ということで、論文を書かせていただいています。今も継続してやっていますが、ほかにやっている人がいないということもあります。38人の方がいて、陸上と水泳の戦没者が多いです。一番多いのがベルリンオリンピックの出場者で、戦争で亡くなっている方が多いです。1940年の東京オリンピックが返上になったのは、1938年の7月に決定されて、代替え大会とし国際大会が浮上しますが、これも中止になりました。

 

 広島出身の児島康彦さんは、1936年のベルリン大会に17歳で出て、シベリア鉄道の長旅で体調を崩して、100m背泳ぎが6位でしたが、メダルは期待されていました。お国のためにということで頭に刷り込まれていました。思いを簡単に口には出来ない時代でした。

 

 松永行(あきら)さんは、戦地からの手紙が8通残っていて、拝読しましたが、東京師範学校出身で先生になるのが将来の道だということを考えていたようですが、教科書を送ってくれというような事が書かれていました。ガダルカナルで1943年に亡くなってていますが、教育学、教育史などの教科書を送ってくれということで、生きて帰れたら、こうしたいという事があったと思います。出征前の写真が残っていますが、物凄い悲壮な顔なんです。もう生きて帰れないだろうと思って日本を発たれたということはその顔から分かります。

 

 広島の江田島出身で、1932年のロサンゼルスオリンピックで水泳で銀メダルを取った河石 達吾さんは、1940年7月4日に故郷に帰られて、親戚の人に話したことは、もう二度と生きて帰ってこられないので、くれぐれも後のことは宜しく頼むということを言って出征されたそうです。(硫黄島で亡くなる。)

 

 簡単に海外に行ける時代ではなくて、自分とは違う文化に触れたり、食生活、建物など今の自分との比較、今の日本との比較することができる。今置かれている状況があるわけです。昔のオリンピアンは、外交官のような役目で、フランクに楽しく交流をしているわけです。

 

 1936年ベルリンオリンピックの棒高跳びで銅メダルを獲得した大江 季雄さん、ベルリンオリンピックの翌年ニューヨークで室内大会があり、大江さんが参加するわけですが、エンパイアステートビルなどを見て明らかに国力の差を感じていて、太平洋戦争に突入した時には選手たちには負けるということが分かっていたと思います。私が知る限りでは、最後まで生きるという希望を捨てなかったということをいろいろなところで感じました。(調査をしなかったら気付なかったことです。)

 

 広島市で被爆して原爆症で亡くなったオリンピアンがいたこと、その方が初めて初めて戦没オリンピアンとして位置付けられました。高田静雄さん、陸上競技の砲丸投げで、日本記録をおよそ20年間持ち続け、砲丸王として有名で、27歳の時にベルリンオリンピックに出場。爆心地から680mの建物内で被爆、長女も亡くし1963年54歳で亡くなる。私にとって原爆を考えるうえでも、戦没オリンピアンを考えるうえでも非常に大きな意味のある方でした。

 

 アスリートが、身体が動かなることが人一倍つらいものだということを感じます。原爆を体験した瞬間とか、原爆症で肝臓が腫れて、腰が曲がって歩くのが大変だということを聞いた時には、原爆から生きながらえたとしても、後遺症を残すわけです。

写真家としても遺品に膨大な写真を残していて、その写真を観て不思議な気がしました。どの写真を観ても明るくて、希望に満ち溢れているんです。平和公園で、慰霊碑の前でアメリカ人の夫婦が腕を組んでいて、一歩踏み出しているポーズですが、高田さんがそのポーズをお願いしたそうです。自分がどう生きたらいいのか問うのは改めて考えさせられました。

 

 やりたいことができる時代で、自分が与えられた人生を自由にデザインすることができるので、精一杯生きることが亡くなった人たちへの恩返しなのかなあと思って、頂いた人生を大事にしたいなあと思います。気が付かないうちに戦争に向かっていることがあるので、自分の中にアンテナを立てて、アラームを鳴らさないといけないと思います。

 

 オリンピズムの目標があり、人間の尊厳を保つことに重きを置く、平和の社会の確立を奨励するということがあり、スポーツは、人間の調和のとれた発育に役立てることが重要なんだということも書かれています、いかなる差別を伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神にをもって、相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて、オリンピックを行わなければいけないということが書いてあります。

 

 記録、勝敗も重要ですが、そうではなくて交流の場、海外の選手、観に来てくれる人達が日本の国民と触れ合う機会をたくさん作って相互理解につなげていってほしいと思います。