澤 和樹さん

 

東京芸大キャンパス 沢学長とぶらり散歩

 

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 NHKラジオに朝4時からの「明日へのことば」という番組があります。それを若い人の目に留まるかと思い、書き起こしされているブログ『明日へのことば』、そのブログをもとに編集しました。

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2020年1月2日木曜日

 

澤 和樹(東京藝術大学学長)  

       ・東京藝大130年、これからの仕事
 

 澤さんは東京芸術大学の10代目の学長。音楽部からの就任は、37年ぶり2人目となります。澤さんは和歌山県出身の64歳、3歳からヴァイオリンを始め、東京芸大から大学院を卒業してイギリスに留学、腕を磨いて1984年に芸大に戻り学生たちを指導するほか、奥さんのピアニスト蓼沼恵美子さんとのコンサートなどでヴァイオリニストとしても活動しています。
 

紹介の後、お話が続きます。
 

 土、日は大学以外の自分の活動をする為に取っている感じなので、しっかり休む日にちは取れないです。コンサートは年に30回ぐらいやっています。AMS( arts  meets  Science)、学長になって、芸術家として活躍してゆく場が限られていて、人間が人間らしく生きるためには芸術は本当に必要なんだという事を世の中の人に分かっていただかないと、芸術家の卵が報われないというところで、癒しを与える、勇気づける力があると思うので、それを科学的、医学的に証明できればもっと芸術のことを大切にしてくれるのではないかと思いはじめました。
 

 一回目は2016年に世界的チェリスト、ヨーヨー・マさんを招いてコンサート・シンポジウムを行いました。この間、3回目を行いました。伝統にしがみついてもいけないし、横のつながりを持つことで、新しい気付きにつながるのではないかと思って学長になったから、総合芸術大学にいることのメリットを、教員も学生も生かせればいいなあと思ってやってきています。2016年4月に10代目に選ばれましたが、現在の文化庁長官の宮田亮平先生があと6年やるつもりでした。突然、文化庁長官を受けられて、急遽決まりましたので心の準備もないまま学長になりました。

 昭和30年生まれ、65歳になります。子どもの頃は肥満で身体も大きくて、公園で遊んでいたりすると子どもたちが「おっちゃん」と言って近づいてくるような感じでした。高校時代に、東京大会に出る時に背広を作りに大坂のデパートに行ったら、店員が母親と一緒に行ったら夫婦と間違われました。
 

 ヴァイオリンをはじめたのは3歳10か月ぐらいの時でした。1/8サイズのヴァイオリンを購入しました。両親は音楽に関係してはいませんでしたが、親戚にレコード会社に勤めている人がいて、うちにはステレオがあってクラシックを聴いていた覚えがあります。

 

 小学校2年生ぐらいに東儀祐二先生を紹介されました。基礎ができていないから駄目だといわれましたが、手が大きくてポッチャリしていて指の長さもそろっていて、手を見て入門を許されました。東儀先生は凄く厳しいので有名でした。小学校6年生の時に全日本学生音楽コンクールの小学校の部の大阪大会で3位になりました。その時は本当にうれしかったです。

 中学3年生の時に、全日本学生音楽コンクールの全国大会と修学旅行の日程が重なってしまい、コンクールに出て全国1位になりました。高校を選ぶにあたって、父親は音楽で食って行けるはずはないという事で、東京の音楽の有名な高校に行くことは大反対されかなり抵抗しましたが、和歌山県立桐蔭高等学校に行くことになりました。医師の道、建築家へとの思いもありました。
ヴァイオリンでは練習を3時間ぐらいしていました。
1973年、東京芸術大学に入学し、海野義雄先生に師事しました。
1974年、第43回日本音楽コンクールで第3位を受賞しました。
芸大に入ってよかったのは、周りの友人たちのレベルが凄く高く学生同士の刺激合いが良かったです。

 大学4年生の時に本格的なリサイタルをやるときになったときに、共演ビアニストのことで海野先生に相談したら蓼沼さん(現在の妻)がいいんじゃないのと言われて、話を持ちかけましたが、見事に断られました。コンクールに賭けたいとのことでしたが、蓼沼さんが習っていた田村先生に直訴して、引き受けてくれることになりました。大学院2年生の時にNHK交響楽団のコンサートマスターの候補生という感じで入ったんですが、プレッシャーもあり、N響のソリストとして来日したジェルジ・パウクというN響の人も知らない無名のヴァイオリニストが、一回目のリハーサルの時に驚くほど素晴らしい演奏でした。パウクさんが声をかけてくれて、若いのに一度もヨーロッパに行って勉強していないのなら、そういった事も考えてもいいんじゃないかと言われて、N響のコンサートマスターを蹴ってゆくこともないだろうと反対もされましたが、1980年の4月からロンドンに行くことを決めました。結婚をして妻と共に行きました。

 二人で年間100回ぐらい演奏会に通えて、最高に素晴らしかったです。パウク先生のまた先生のベラカトーナ先生にも見てもらって、音階と練習曲をやるという一から基礎を学びました。8か月かかりました、いつの間にか力が入っていたようでした。

 

 1984年に帰国し、東京芸術大学音楽学部器楽科専任講師に就任しました。グァルネリの音色に魅せられて、とても手に入らないと思っていましたが、和歌山県立桐蔭高等学校の創立100周年記念で弾かせてもらって、グァルネリのことを話したら、先輩で大きな病院の院長をしている人が数人に声をかけて共同で購入して、それをあなたが使えばいいんじゃないのと言われました。
40年ぐらい前の話ですが、その楽器を持たせてもらう事になりました。こんな楽器があったからこそパウク先生との出会いがあったし、いろんな出会いができた事と思います。40年経って、この楽器の持ち味を聞いている人たちに届けられるようになってきたと思います。

 娘は澤 亜樹と言いまして、現在東京藝大音楽学部室内楽科非常勤講師をしています。(東京藝術大学附属音楽高等学校を経て、同大学音楽学部首席卒業。学内にて安宅賞、アカンサス音楽賞受賞。2010年より2年間、文化庁新進芸術家海外研修員として、英国王立音楽院に留学し、最高位のDiploma of Royal Academy of Music (DipRAM)を得て首席卒業。青山音楽賞新人賞、松方ホール音楽賞受賞。)6歳からヴァイオリンを習い始めて私も教えました。
 

 中学でいじめにあい、登校出来なくなり支えになったのがヴァイオリンでした。娘の夫は西川智也と言いまして、群馬交響楽団のクラリネットの奏者です。
 

 東京芸大が、世界一の総合芸術大学といわれるような中身を作っていきたいことと、頑張っている学生、卒業生が芸大で学んだ事を世の中で十分に還元して人々の幸せに貢献できるという事を、見える形にしていきたいというのを目標にしています。