2019年6月8日土曜日

垣添忠生さん
 NHKラジオの「明日へのことば」の番組を、若い人の目に留まるかと思われ投稿を続けていられる方の<明日へのことば>というブログを元に編集しています。

 

垣添忠生(日本対がん協会 会長)  

 

   ・「悲しみを癒やす旅路」
 

 

 日本対がん協会 垣添忠生さんのお話です。12年前最愛の妻をがんで亡くしました。伴侶を亡くした喪失感は想像を絶するものでしたが、どん底を味わうことで垣添さんの人生観は大きく変わったと言います。

紹介のあと、お話が続きます。

 

  国立がんセンターで32年、その前にも色んな病院を回ってがんをやっていましたので、臨床医として42年、辞めて今、日本対がん協会としてがんに関わっていて、がんの仕事は50年になります。
後半はがんを抱えた方、がん患者、家族まで含めた方にどう向き合って行くか、心を砕いてきました。

 

 昔はがん=死と言うイメージでしたが、がんが治るような病気になってきた。がんと言われると、頭が真っ白になって、いつ再発するか転移するか悩み、普段の生活でも疎外感、孤立感に悩まされていて、そういう状態を何とかしなければいけないという事が、後半心を砕いてきた取り組みだったと思います。がんは約100種類あり、進行具合、悪性度の組み合わせ、人によって本当に多様です。

 鮮明に覚えているのは、一人は会社員として仕事をしていて、いつも電話の受話器を取って左耳で聞いているが、ふっと気が付くと右耳で聞いていた。聴力が落ちたのかなと思って病院にいって、脳腫瘍の一種、聴神経腫瘍が見つかり直ぐ治療して、直ぐに社会復帰した人がいました。反対に、32歳の男性で睾丸(こうがん)にがんができて、だんだん大きくなっていって、恥ずかしいとか、受診の決断が付かなくて、4カ月位しているうちにリンパ節に転移が出来て、巨大な腫瘍ができて邪魔されて左を向くことができない。自分の身体の異常に対する対応という観点では天と地の違いがあります。

 

 私も2000年に便の潜血反応で陽性でした。その1年目は物凄く忙しくて何の症状も無く、忙しさのあまりそのうち忘れてしまいました。翌年も便の潜血反応で陽性で、しまったと思いました。大腸の内視鏡検査をして貰って、3つポリープがあり一番大きいポリープに早期がんが見つかりました。2005年に超音波で調べたら、左の腎臓にがんが見えましたが、小さいので治せると思いました。4月初めに見つかり、仕事の少ない5月20日に午前中仕事をして、午後に全身麻酔してもらって手術しました。1週間で退院して、2週間目にはWHOのジュネーブの国際会議に出席しました。

 2000年に妻、(昭子)にがんが見つかりました。肺の線がんが見つかり切り取ってすぐ治りました。5年後に声が枯れてきて、甲状腺がんが見つかり、半分取って手術で治しました。肺に転移する可能性があるので、時々検査していたら、2006年に右肺の真ん中に4mm位のがんが見つかり、一番たちの悪いがんということが分かりました。

 

 抗がん剤と化学療法、放射線治療を組み合わせて治療をしました。完治の確認の検査(CT,MRI、PET)をしたら、多発性肺転移という事で、画像診断の結果を聞いて妻の命は長くて3カ月だと思いました。一番強い化学療法をしたが、数回やったが駄目で、他の薬でも副作用がすごく強かった。
一回だけ文句を言ったことがありますが「こんな治療を受けているのは貴方の為よ」と言われて愕然としました。(総長を辞めて名誉総長になて間もなくでした)

 

 翌年二人は死を覚悟するようになりました。最期に外泊した時に、新しい洋服を2着買ってきました。あれはもしかして死に装束を昭子が選んでいるのではないかと思いました。12月にはどんどん悪くなって家に帰りたいと言うようになりました。応接間を片付けて業者から酸素発生器を2台借りてきて、布団を敷きました。

 あら鍋を食べたいという事で料理して、近所の介護師の資格を持っていて手伝いにきてくれて、何とか居間の炬燵へ連れていきました。副作用で口内炎とか食道炎で食べれないと思ったが、お替わりまでして「おいしいおいしい」といって、「家ってこうでなくちゃ、こうでなくちゃ。」と何度も言っていました。苦労して連れて帰ったが本当に良かったと思いました。
 

 29日には、意識が切れ切れになり始めました。30日にはチェインストークス(Cheyne-Stokes)呼吸(過呼吸と無呼吸をくりかえす)をするようになって、こうなると先は長くないです。31日朝からこん睡状態になって、午後には強い呼吸困難になって色々な処置をしましたが、状況はよくなかった。呼吸困難で意識が無かったが、夕方突然半身をおこして私をみて、両目をパチッと開けて、私を目で確認して、自分の右手で私の左手をギュッと握って、心肺停止になりました。
 

 医師の診断書では亡くなったのは6時45分でしたが、私に意識の上では6時15分でした。言葉にはできなかったが「有難う」と言って亡くなったと思います。最期に心の通い合いがあったと言う事は、その後の3か月は死ぬ思いをしましたが、何とかこっちへもどってこられたのは、最期に心が通い合ったと言う事が大きな意味を持っていたと思います。私も家で死のうと強く思っています。

 それからはひたすら泣いて明け暮れました。食べ物をたべても砂を噛むようで味はしないし、飲み込めないので、ウイスキーとか強い焼酎とかで流し込みました。酒を飲む以外は妻の死に顔を見てひたすら泣いていました。1月4日に灰になって帰ってきましたが、一切妻との対話はもうありませんでした。それは本当につらかったです。
 

 食欲がないし、眠れないし、一日1kg体重が減っていって、精神も肉体も最悪の状態になっていきました。職場では仕事はたくさんあるし、夢中でやればその間悲しみは忘れられると思って、昼間は夢中で仕事をやっていました。家に帰ると一切対話が無い訳です。ひたすら3か月泣いたという事は非常に大きな意味がある思います。

 残された人がどう生きるかということですが、それを助けるのがグリーフケア(grief care)、自分でやるのがグリーフワーク(grief work)とかありますが、私はまさにグリーフワークをやったと思います。仏教徒ではありませんが、住職と話したことがありますが、7日ごとに大事な営みがある。初7日、49日、100か日とそれだけの期間をかけて亡くなったことを得心する。(泣き納め)
 

 3か月を過ぎたころから腕立て伏せなどを始めました。いまは朝、腕立て伏せ100回とか、背筋100回とか、ストレッチ、スクワットなどをやっています。体を鍛え始めると食欲が出てきて、酒も浴びるほど飲まなくなって、精神も前向きになってきました。以前やっていたカヌーを奥日光にいってやることによって前向きになっていきました。以前から関心があった「居合い」を週2回、1,2時間やって、心の底の深い苦しみ悲しみを表出する行為だと気がつきました。1年半の妻との闘病の記録を本に纏めました。

 写真を持ち歩くようになってから寂しさを感じる事が格段に少なくなりました。いつもいるような一体感がありました。文章に纏めてみて、心の奥底の悲しみがすこしづつ解きほぐされるような感覚があり、書くことの効用を私は初めて知りました。

 

 2015年の夏、四国八十八か所をめぐる遍路を思い立ちました。(妻が亡くなって7年目74歳)
1000kmを約50日で回る過酷な旅でした。慰霊の旅と思って始めましたが、妻に対する感謝の旅だなあと直ぐ気がつきました。両親、友人からの強い反対がある中で、貫いて妻と結婚して40年間過ごして本当に幸せだったと思います。真夏の暑い中、地元の人のお接待がありました。旅する中で色んな想念が浮かびました。

 

 宇宙は10☓27乗mの広大宇辺な広がり、極小を観ると素粒子は10☓-35乗m。人間はその間に漂っているはかない存在のようにみえるが、人間の中を見てみると六十兆個の細胞があり、細胞の中には核があり、そのなかには合わせると1,8mのDNAがあり、全部繋げてみると1000億kmになり、太陽と地球の間を300往復する距離になる。
 

 弱々しそうに見える人間を観ると凄まじく強靭な存在であり、遺伝子構造が僅かづつ違っていて、人間の命の大切さ、一人一人の人生の大切さが自然に浮かび上がってくる。元気でいられると言う事は素晴らしいことだと思います。
 

 妻が亡くなった時から、自分の死はどうでもいいような妙な感覚があります。それまで最大努力して生きて行こうと、日々大事に生きています。2018年全国のがんの拠点病院を歩いて訪ねて行く、がんサバイバーウオークを始めました。みんながいつ罹うか分からない病気なので、がんの事を理解してがんサバイバーを差別するような社会を無くしていきましょうと訴え、生の声をじかに聞きながら歩いたという事は非常に大きな体験でした。
 

 悲しみは無くなるという事は無いです。永遠に消えないと思いますが、穏やかにはなってきています。妻の写真を懐に入れていますが、辛い時とか観ますが、最初一日千回とか何千回とか観ていましたが今は一日百回位ですかね。
 

 喪失感は消えませんが、日々の生活に懸命に取り組む事が、そこを乗り越えて行くパワーになっていると思います。

ガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーン

 

垣添忠生さんの体験談|がんになっても

 

 

 

プロローグ

第一章 妻との出会い

半分になったりんご/大阪の野生児/東京でのいじめ/数学漬けの夏合宿/下駄をはいた医学生/卒業試験をボイコット/患者との恋

第二章 駆け落ち

傘一本の家出/祝福されない結婚/警察からの呼び出し/大胆で優柔不断な人/過酷な武者修行/自分の生きる道/国立がんセンターと私/がん医療の最先端を担って/病気がちな妻

第三章 妻の病

六ミリほどの小さな影/虫の知らせ/最期の医療/治らないがん/最期の日々/家で死にたい/たった一人の正月

第四章 妻との対話

酒浸りの日々/三ヶ月の地獄/一人の食事/自分の身体を守る/家を守るということ/妻の遺言/海外出張の効用/蝶になった妻/新たな生きがい/回復と再生

エピローグ
参考文献

解説 嵐山光三郎