重森千靑さん
NHKラジオの「明日へのことば」の番組を、若い人の目に留まるかと思われ投稿を続けていられる方の<明日へのことば>というブログを元に編集しています。
2019年5月30日木曜日
重森千靑(作庭家)
・三代目、我が道を行く
61歳。昭和を代表する著名な作庭家三玲(みれい)さんを祖父に、同じ作庭家である完途(かんと)さんを父に持ちます。千靑(ちさを)さんは大学を卒業後、作庭家としての道を歩みます。現在は東京と京都を拠点に、日本庭園の設計と庭園種?(主?)の研究をされながら庭園を身近に感じ、理解を深めてもらおうとホームページで、日本庭園の情報を発信したり講演や講師の活動を広く行っています。重森さんは自分は3代目と言われるが、自分のすべきことを見付けて自分の道を歩んでいるとおっしゃいます。
紹介のあと、お話が続きます。
重森の家は長男が継いでゆくというか、重要視されていました。私は次男なのでそういう事はやらなくてもいいんだろうとずーっと思っていました。オートバイの草レースにはまり込んで、古いバイクで出られるレースがあって、古いバイクを改造してサーキット用に仕上げて行ったりしていました。プロと一緒に走った時に、絶対太刀打ちできないと思いました。
16歳の時にオートバイで旅をすることに引きずり込まれました。オートバイをいじっているとパーツ代にお金がかかるので、アルバイトをまた次に何かしようと思っていました。「つくばい」と言う本、父がそれを出すという事で実測をしていましたが、人数が足りないから来ないかと言われて、一緒に行きました。(つくばい=手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。)
そ
その時の場所が凄いところばかりで非公開で、京都のお茶の藪之内流という流派の路地のつくばいの実測、表千家、裏千家、武者小路千家の3千家のうちの武者小路千家へ丸々一日行って実測したり、桂離宮にあるつくばいがたくさんありますが、それを実測したりだとかやりました。今でもやりたいと思う凄くいい仕事でした。陽の射し方が刻々変わって言って、庭園っていいものだなと思いました。
なんとなく引きずりこまれて行って、気が付いたらどっぷりはまっていました。長男は、大学の時にやらないと言っていました。私は大学は文学部でした。父から「間違っても造園科などに行くなよ」と言われました。重森の家の庭の考え方はちょっと違うからと言われました。
28歳の時に、東京の父の家の庭木が繁茂し過ぎていたので、植木屋を呼んだが、その人は重森にかつていた人でした。息子さんが来てくれればという事で、5年位一緒にやらせていただきました。
実際の物を作る立場から見ると全然見方が違ってきました。理論的なものだけだと細かいものが見られないが、気がつく事が出来ました。親方からは「見えない所ほど丁寧にやれ」と言われました。
その後1年間、父のカバン持ち的な事をやりましたが、1年経たないうちに父が亡くなってしまいました。突き放されてしまったような状態で、でもそれでいまに自分があるのかなあと思います。
祖父、父に対するプレッシャーは凄くありました。どうやっていくかは、おいおい考えていくしかないと思いました。一般の人に日本庭園ってこんなものですよと、分かりやすく伝えられる仕事も一つの仕事なんではないかと思いました。1995年あたりからインターネットがぽつぽつ始まり、世界の情報が得られることが凄いと感じました。自分から発信すると言う事が凄いと思って、日本庭園の情報発信をしていこうと思いました。重森の3人目のやり方が少し確立できたんかなと思いました。祖父が200庭以上、父が100庭以上やって、私は今50庭位です。北は秋田県、西は姫路です。作品も最初力が入り過ぎていて、だんだん肩の力が抜けていっているという感じです。
京都の松尾大社の庭園は最初祖父がつくって、池の庭の部分は祖父が倒れて未完成部分で父に依頼されたが、祖父の設計部分をやることに対しては父がやらなければいけないという事に対して厭だったようです。(比較されて見られる)父は出来るだけ自分の考え方を捨てて作り上げました。
そのかたわらを私が担当することになりましたが、長老さん達から方ことごとく言われたのは「君の石の組み方は、三玲さんだな」と言われました。京都の真正極楽寺(通称真如堂)に10年前ぐらいに庭園を作ったのですが、そこにある材料を生かして作りたいと思って、作り上げましたが、綺麗な庭園にまとまったねと言われました。(「随縁の庭」)
「肩の力が抜けてきている」という意味合いは、石の組み方、植栽の扱い方、地割りといいますが、庭全体を直線と曲線を融合させながら作って行く。意味があって、自分の中で経てきた人生観の中で今答えを持って、それを表現できるようになったという事が大きかったと思います。絵画,彫刻などは自分が作りたいと思う作品を作るが、依頼者があり、自分のお金で作るわけではないので、庭園の場合はそれができないところがある。
石を中心にした庭作りで維持管理に手間がかからないようにというのが重森の考え方でした。植物は伸びるし、草取りはしなければいけないし、水やりを必ずしなければいけないし、庭園は愛情を持って接していかないとダメになってしまうので、できるだけ維持管理が最小限でプロの手を余り入れなくても、綺麗な状態を保つことができることが重森の特徴だと思います。
松が主流で、広葉樹では伸びるのが早くて、年一回は剪定が必要なので、時と場所によります。
祖父は四国で取れる緑泥片岩(緑色片岩)は美しいという事で、昭和15年に作り始めた庭園から青石一辺倒になり、父も同様でした。違った指向でいきたいと思って、地元の石を中心にしようと思いました。京都ではチャートと言う岩石が取れますので、京都で庭作りではチャートを中心とした物にしたりしています。
竜安寺はチャートと青石が半分ずつ組まれています。石は基本的には加工しないで行い、岩組みといいます。山岳風景、鶴や亀を表したり、自然の姿のままで身立てて作り上げて行く、これが庭作りをやっていて一番面白いと思います。石と対話をする、そういうことに繋がってきます。石の思いを聞き取って庭作りをして行くとその庭は綺麗になるわけです。「作庭記」にはそう言った事が書かれています。
歳を取って来ると、「石が呼んでくれる」という事がなんとなくあります。そういう時には対話が出来たなあと、本当に嬉しいですね。次のステップとしては海外でも日本庭園を深く理解してもらうように積極的に活動していきたいと思います。
庭園を通して文化交流ができればいいと思います。
真如堂 随縁の庭・重森千青氏が2010年に設計した庭園

