中野浩一さん
 NHKラジオの「明日へのことば」の番組を、若い人の目に留まるかと思われ投稿を続けていられる方の<明日へのことば>というブログを元に編集しています。

2018年11月11日日曜日

 

中野浩一(元競輪選手)

 

・【特選 スポーツ名場面の裏側で】世界自転車選手権10連覇
 

 63歳、福岡県久留米市出身 福岡県立八女工業高等学校では陸上選手で高校総体400mリレーの優勝メンバーでした。高校卒業後競輪選手になって二十歳のデビュー戦から 18連勝など一気に競輪界のスターになりました。世界自転車選手権スプリントでは1977~1986年まで大会10連覇を達成し、日本人が想像する以上の世界のビックスターとなりました。37歳で引退するまで歴代最多6回の競輪賞金王となって、ミスター競輪と言われ、競輪選手出身者で初の紫綬褒章を受賞しました。
2020年の東京オリンピックの開催が決まった直後に伺った2013年のアンコール放送です。


紹介のあと、お話が続きます。
 

 東京オリンピックの開催発表の晩は起きて見ていました。日本自転車競技連盟(副会長)としては選手を育てるのが非常に難しいので、オリンピックに向けて自転車競技全種目フルエントリー出来るような形にしたいし、メダルを取ることが一番の命題になります。日本のレベルも上がってきています。
 

 スプリント種目、2人で戦う競技。2人で同時にスタートして3周回って先にゴールした方が勝ちとなる。残り200mまでは何処を走ってもかまわないが、最期の200mは真っ直ぐ走らなくてはいけない。準々決勝ぐらいから3本の試合となる。
 

 1977年20歳でデビューした翌年、ベネズエラの大会で決勝は菅田順和選手との日本人選手同士の対戦となった。結果勝つことができる。それまで日本人は銅メダルが最高だったが、金、銀を取ることが出来た。

1978年、1979年に西ドイツ・ミュンヘン大会、オランダ・アムステルダム大会では決勝ではいずれもディーター・ベルクマン(西ドイツ)と対戦。
共に勝って3連覇を達成する。この時の国内賞金獲得額は8000万~9000万円余り、長者番付けの常連となる。

 

 1980年フランス・ブザンソン大会 準決勝では、アマチュア時代、メキシコ・ミュンヘンの両五輪大会においてスプリント連覇、世界自転車選手権アマチュア部門のスプリントを7回制し、「スプリントの神様」と称されたダニエル・モレロン(フランス)と対戦することになった。(事実上の決勝と言われた。)怖さみたいなものは感じなくて、2本とも逃げ切りました。決勝でも尾崎雅彦を破り、4連覇を達成した。4年連続賞金獲得王になり、賞金獲得額は競輪史上初めて1億円を越える。
 

 1981年 チェコスロバキア・ブルノ大会。準決勝で、後に名ロードレース・スプリンターとして名を馳せることになる、ギド・ボンテンピ(イタリア)に圧勝。ゴードン・シングルトン(カナダ)と決勝で対決して勝って5連覇達成する。その一カ月後の日本国内のレースで最期に僅差で負ける。

 1982年 イギリス・レスター大会 ゴードン・シングルトン(カナダ)と2年連続の決勝。この年、競輪で落車が相次いで骨折をしたりしていた。1本目、シングルトンと接触して双方転倒、こちらが妨害したと言うことだったがノーカウントの判定となった。1本目はシングルトンが取り、2本目は私がかわす際にシングルトンは右ひじを出してきたが、私はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。
この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。3本目の競走続行不可能となり棄権。薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。

 

 1983年 スイスチューリッヒ大会。 決勝はヤーベ・カール(フランス)と対戦、勝って史上初の連覇。46年ぶりに連覇記録を更新した。
 

 1984年 スペイン・バルセロナ大会。 決勝はオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦、破って8連覇達成。
 

 1985年 イタリア・バッサノ大会。 決勝では、松枝義幸選手をストレートで下して9連覇を達成した。

 1986年 5月下旬、久留米競輪場で行っていた、高松宮杯競輪直前の練習中に転倒し、肋骨などを骨折する大怪我をして世界自転車選手権出場自体も危ぶまれた。驚異的な回復力を見せたが練習の際にまた転倒、同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないままコロラドスプリングスの世界選手権に出場することになった。もう開き直るしかないと思った。アメリカで勝てば競輪の評価も上がると思ったので是非勝ちたいと思いました。

 

 アメリカ・コロラドスプリングス。決勝では、同じ日本の俵信之選手を下した松井英幸選手との対戦となり、ついに10連覇達成。日本が金、銀、銅を獲得。中曽根康弘首相より「内閣総理大臣顕彰」が授与されることになった。

 小さいころは走るのは早かったです。スポーツで身を立てたいと昔から思っていたので、ゴルフでもやりたいと言ったら、お金が掛かるので自転車でも乗ってみたらと言われて、乗ってタイムなどを測ったら速いと周りから言われてそのまま自転車に乗ることになりました。

 

 伊豆の修善寺競輪学校に1年間入りました。19歳でのデビュー戦から18連勝負けないで九州のハヤブサと呼ばれるようになる。
 

 競輪選手は2700~2800人います。(当時は4400人位いました。)
選手のランクがあり、S級S班は9人しかいません。毎年格付けの入れ替えがあります。練習は毎日、最低100km走ります。若い時はそれを3回やっていました。

 

 私は年間を通して変わらないコンディションを保ちたいと思っています。
国際大会は傾斜が45度ぐらいありますが、国内だと33度位です。ブレーキが無いので返って安全です。(急ブレーキなどが無い)レース自身が私を中心に動く所があるのでかえって楽なところがあります。
精神的なものは若い時から知りあいになれていた人とかもあり、最終的には練習の裏付けです。

 

 イギリスではコマーシャルに自転車競技の選手が物凄く多く出ています。日本のジュニアの層をもっと広げたいと思っています。底辺を広げればもっともっと強い選手が出てくる可能性が大きくなると思っています。

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