ねずさんのひとりごと さんのブログより

 

「大東亜戦争は日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に準備万端整えて、手ぐすねひいて日本が軍事行動を起こすのを待ち構えていたのです。

 

ウルトラマンや仮面ライダーが流行るよりずっと以前、少年達の心を奪っていたヒーローが、「黄金バット」と「快傑ハリマオ」でした。
「黄金バット」空想上の人物ですが、「ハリマオ」は実在の人物です。
本名を谷豊(たにゆたか)といいます。

谷豊は、妹をChineseに惨殺され、復讐のために三百人ほどの地下組織を持つ義賊となり、支配者である英国人やChineseを襲って、奪った金品は私有せず庶民に与えた人物です。
マレー人になりきっていたけれど、陸軍中野学校出身の藤原機関員神本利男に日本人であることを覚醒され、日本軍のマレー作戦に協力し、三十歳でお亡くなりました。

 

谷豊
谷豊



谷豊は、明治44年(1911)、理髪店を営む父、谷浦吉の長男として生まれました。
豊が生まれてまもなく、一家はマレーシア北東部のクアラ・トレンガヌという大きな街に移住しました。
美しいマレーシアの島々への玄関口として、いまでも多くの日本人観光客が訪れる街です。
 

けれど豊は、大正5年(1916)、5歳のとき、ひとり日本に帰国しました。
「教育は日本で受けさせたい」という親の意向からです。
祖父母の家に滞在し、福岡市立日佐小学校に入学しました。

小学校を卒業した豊は、大正13年(1924)、再びマレーシアへ戻りました。
マレーでは、友人たちと一緒にタコを作って揚げたり、ボクシングをしたりして、楽しい青春を過ごしています。
当時の豊少年は、天性の運動神経と気の強さもあいまって、喧嘩がものすごく強かったそうです。
そのため、豊のまわりには、いつもたくさんの仲間たちが集まっていました。
そして19歳のとき、マレー人のワンシティさんと結婚して、イスラム教に改宗しました。

昭和6年(1931)、20歳になった豊は、祖国の役に立つために軍人になろうと、単身、再び日本に帰国しました。
ところが身長が足りない。
それで、「丙種合格」となりました。

我が国の徴兵検査は、甲乙丙丁戊の5段階評価です。
軍人として採用になるのは、身体頑健性格良好成績優秀な甲種合格者です。
乙種は不採用です。
ただし、どうしても軍人になりたいと志願する者は、抽選で合格にしてもらえることもあります。
丙種合格というのは、字面こそ「合格」とありますが、身体上に欠陥あり、とされた者であり、現役の兵として採用できないが、国民兵役には適する(つまり内地で補助的な任務なら可能)ということであって、要するにひとことでいえば、不合格ということです。

豊は、運動神経・学力性格は良好だったのですが、身長が足りないということで、不合格となりました。
愛国心が強く、もとより健康で、喧嘩も強かった豊にとって、このことはかなりのショックでした。

兵役に就けなかった豊は、福岡のアサヒ足袋で働くようになるのですが、その後、福岡市内の鉄工所に就職しました。
この頃の豊は、毎晩のように美野島や柳町の飲み屋街に出かけていました。
飲んでは喧嘩をするのです。

喧嘩の相手は、決まって自分よりも大柄な相手だったそうです。
豊は、小柄で細いから、相手は舐めてかかります。
ところが豊は、そこをサッと相手の懐に飛び込んで、得意のボクシングで、相手の腹や顎を強打しました。
たいていの相手はこれで一瞬でノックアウトされたそうです。

博多には気になる女性もいたそうです。
さらに豊は、当時自分名義の田を六畝相続で持っていたのですが、これをいつの間にか売り払っています。
そのお金をどうしたかというと、なんとまるごと貧しい家庭の友人に恵んでいます。
気風(きっぷ)が良くて、頭が良くて、喧嘩が強くて、あたたかくて色男。
豊のまわりには、いつも友人が集まっていたといいます。

ちょうど、その頃、マレーシアでは、在マレーのChineseたちが、いたるところで排日暴動を起こしていました。
Chineseの気質というのは、戦前も戦後も変わりません。
我が強く、上下と支配による収奪と人間性の否定という社会的ストレスに常にさらされているChineseたちは、上(政府)から動員がかかると、そのエネルギーを集団で暴発させます。
China国民党は、近隣諸国にいるChineseたちのこうしたエネルギーを、反日活動のために利用したのです。

動員されたChineseたちは、マレーで暴徒集団となって日本人を襲いました。
各所で、日本人の営む商店や家屋が襲われ、金品が奪われ、男はなぶり殺され、女性たちは強姦されました。

昭和7年(1932)11月、マレーシアの小さな床屋だった谷家も、Chineseの暴徒たちによる襲撃を受けました。
襲撃の少しまえに、谷家では、一家の大黒柱だった父親が急逝していたのです。
要するに谷家には、母と、妹のシズコと、弟の繁樹しかいませんでした。

この日、母親はたまたま出かけていて留守でした。
弟は英語学校に行っていました。
家は、たまたま病気で寝込んでいた妹のシズコひとりでした。

Chineseたちの暴動がはじまったとき、たまたま英語学校から帰宅途中だった弟の繁樹は、近所の人の「逃げなさい!」という声を聞いて、あわてて近所の歯医者さんの家に駆け込んでいます。
そしてChineseの暴徒たちが、手に「生首」をぶら下げて歩いて行く様子を、歯医者さんの家の窓から目撃しています。

暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が見たもの。
それは、荒らされて血まみれとなった室内と、首をねじ切られた妹の惨殺死体でした。
Chineseのこうした残虐性というのは、ほんとうに今も昔もかわりがありません。
いまでもウイグルやチベット、法輪功等に関して同様の集団による暴行が公然と行われています。

このときも、Chineseの暴徒たちは、妹の首を持ち去り、まるでサッカーボールのように、蹴り転がしていたそうです。
その首は、伝記によれば「ねじ切られていた」といいます。
どんなにしたら人間、そこまで残酷になれるのか。
小説などで人の持つ残虐性がテーマになることが間々ありますが、そうした創作さえも色を失うほどに、実際にあった出来事はあまりにもひどい。
夜になって、繁樹と隣家の歯科医が、妹の生首を奪還してきてくれました。
そして泣きながら首と胴を縫い合わせてくれました。

あまりのことに、事件後母と弟は、マレーの家を引き払い、日本に引き揚げてきます。
当時は、いまのように携帯電話もなければ、郵便事情も整っていない時代です。
日本にいて何も知らなかった豊は、帰国した母親から、この事件の顛末を聞きました。

このときの豊の気持ちは、察して余りあります。
大切な妹を、大好きな可愛い妹を、自分のいないときに異国の地で、生きたまま首をねじ切られたのです。
どんなに痛かったろう、どんなに辛かったろう。救うことができなかった、助けてやることができなかった。
悔しくて、悲しくて、どうしようもなくこみ上げる気持ち。

豊は、復讐を誓い、血を冷たく冷やしました。
そして昭和9年(1934)7月、単身マレーシアへ向かいました。

マレーのクアラ・トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営みました。
店はたいそう繁盛したそうです。
豊は床屋業を営むかたわら、妹殺害の犯人探しを始めました。
妹を殺したChineseは、逮捕され、裁判にかけられたものの無罪放免となり、その後消息不明になっていたのです。

なぜ?と思うかもしれません。
この時期、マレー経済は、Chineseの華僑たちが牛耳っていたのです。
そしてマレーという国の形がどうあれ、ChineseたちはChineseの理屈で動きます。
簡単にいえば、事の善悪に関わりなく、カネで裁判結果はどのようにでもなったのです。

欧米は、いわゆる「契約社会」です。
結婚も神との「契約」だし、官と民の関係も「法」という名の「契約」に基づきます。
民間同士の関係も契約関係です。

Chineseは「人治社会」です。
「人治社会」というのは、どちらが上か、どちらが得かという支配と利害だけで物事が動く社会であるということです。

日本は「相互信頼社会」です。
嘘をいうこと、信頼を損ねることが不実とされます。
悪いことをしても、捕まれば「おそれいりました」となるし、判決には従容と従います。
それは我々が日本人であり、日本の社会の歴史や伝統がそのようにさせているのです。

さて、マレーで床屋を営んだ頃の豊は、この時21歳でした。
豊は当時のマレーの統治者である英国官憲に強く抗議しました。
無罪とは何事か。
事実関係はちゃんと調べたのか。
犯人の居場所を教えろ等々。

しかし、しつこく食い下がる豊は、逆に不審者とみなされて投獄されています。
出所後、ツテをたどって日本の政府関係者にも陳情しました。
けれど誰も取り合ってくれませんでした。

味方が居ないことを知った谷豊はひとり復讐を決意しました。
そうしてマレーに帰って一年を過ぎたころ、豊は突然店を閉めて姿を消しました。

それからしばらくすると、マレーに、英国人とChineseの事務所だけを襲う盗賊が出没し始めました。
最初の事件は昭和12年(1937)、トレンガヌ州政府土地局が襲われた事件です。
ここでは土地証文や債券、手形など時価3万ドルが盗まれました。
ただし人的被害者はいません。

次に起こった事件は、タイの国境の町スンガイ・コロです。
白人の経営する金鉱山で、純金八本が金庫から盗まれました。
手口は同じでした。
ここでもやはり人の殺傷はまったくありませんでした。

同様の犯行は、次々と続きました。
裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取る。
そしてその金品が付近の貧しいマレー人の家にばらまかれる。

マレー人たちは大喜びしました。
そしてこの盗賊は、いつしかマレー人たちの間で、「ハリマオ」と呼ばれるようになりました。
ハリマオというのは、マレー語で「虎」という意味です。

やがてハリマオを頂点とする盗賊団は、Chinese華僑の豪邸や商店も標的にするようになりました。
殺しはしません。
しかしときには金塊を積んだ鉄道車両を爆破するなど大規模な犯行も行いました。

幼い子供時代と青春時代をマレーで過ごした豊は、マレー語がとても堪能でした。
そのためハリマオ盗賊団のマレー人の新しい部下などは、ハリマオが日本人であるということさえ、まったく気付かなかったそうです。

昭和16年(1941)4月、豊はパタニで逮捕され、留置所に収監されました。
神本利男(かもととしお)が現れたのは、ちょうど豊がバタニの刑務所にはいっていたときのことです。
神本は、豊の身柄を引き取ると、数回にわたり豊と長時間の接触をもちました。

神本利男さんという人物は、昔、テレビドラマ「大岡越前」で主演した俳優の加藤剛にちょっと顔立ちが似ています。

神本利男(かもととしお)
神本利男



色男でもの静かです。
けれど固い信念の人です。
もともと警察官だったのだそうです。

満州で甘粕正彦憲兵大尉から絶大な信頼を得て警察官を退官し、道教の満州総本山である千山無量観(せんざんむりょうかん)で三年間修行を積みました。
そして満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生となりました。

当時、満洲道教会で葛月潭老士といえば、超大物です。
葛月潭老師の門下となることができた日本人は、神本さんと大馬賊として有名な小日向白朗の二人だけです。
神本さんは、それだけ優秀な人物だったということです。

さて、大東亜戦争開戦が近づいた頃に、バンコクに駐在していた特務機関の田村大佐は、開戦を睨んでマレー工作を命じられていました。
当時はChina事変の最中でもあります。
Chinaでは蒋介石が国民党を率いてChina各地で乱暴狼藉略奪強姦虐殺強盗の限りを尽くしていました。

日本軍は、蒋介石を追い込み、China各地に平和と安定、治安の回復をもたらしていたけれど、その蒋介石が北京・上海から南京へと逃れ、そこからさらに逃亡してChinaとビルマの国境付近である雲南省にまで逃げていく。
その雲南の蒋介石のもとには、英米豪が軍事物資や兵器、食糧を送り込んでいました。

Chinaは無政府状態で、全土で略奪や暴行が日常的に行われていました。
農地は荒らされ、家畜は殺される。
これでは庶民は食えません。
食えなくなった庶民は「日本軍怖し」とデマを飛ばされ、英米から食料支援を得ている蒋介石のもとに集まりました。
なぜならそこに食料があるからです。
こうして蒋介石軍の人数が増える。
国民党軍の勢力が盛り返す。

この悪循環を断つためには、日本は、英米豪の蒋介石への支援ルートを断たなければなりません。
そのためには、日本は軍をマレーからビルマに北上させて援蒋ルートを遮断しなければなりません。
そこで特務機関の田村大佐が考案したのが、
「マレー国内に日本軍と連携して行動を共にしてくれる仲間を作る」
という作戦です。
そしてこの作戦の実行のために選ばれたのが神本さんでした。

神本さんは、ハリマオ義賊団を巻き込むのがいちばんよいと考えました。
そしてマレー半島を南下し、道教のネットワークを使って、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止めると、タイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、日本軍への協力を依頼しました。

このとき豊は「俺は日本人ではない」と、マレー語で叫んだそうです。
「違う!、お前は日本人だ」という神本さんに、豊は複雑な胸中を語りました。
妹の殺害事件で、日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われたのです。
やむなく盗賊となって復讐をはじめたが、俺は人殺しは一切しなかった。
盗んで得た金品も、みんな貧しい人々に分け与えた。
しかし日本人は、「盗賊など恥晒した」と俺を非難する。
「俺は、日本から見捨てられたんだ」
と豊は語りました。

神本は静かに言いました。
「まもなく、この半島は戦場になる。
 私はマレーをマレー人の手に戻したいと思っている。
 そのためには君の力が必要だ。
 マレー半島はこれまで、
 白人によって四百年間もの間、
 支配され続けてきた。
 反政府運動はバラバラにされ、
 すべて鎮圧されてきた。
 だがな谷君、
 日本軍に現地人が協力してくれるなら、
 日本は必ず英軍を駆逐して
 マレーの植民地支配を終わらせる。
 それは必ずできる。」

「谷君、小金を奪えば盗賊だ。
 しかし国を奪えば英雄だ」

このとき豊は、神本の人としての魅力に、ぐいぐい引き寄せられる自分を感じたそうです。
さらにイスラム教の信者となっている豊の前で、道教の信者のはずの神本が、イスラムのコーラン第一章アル・ファティファ(開端章)全文を暗誦してみせたのです。

豊は決心しました。
「わかりました。
 あなたについていきます!」

この頃のハリマオ団の実数は約300名でしたが、一般には「配下3千名の大盗賊団」と噂されていました。
そう思われるくらい豊はメンバーを選りすぐりの者で構成していました。
どういうことかというと、配下のメンバーは、ひとりひとりが特殊技術の技能集団だったのです。
実際、豊の部下達は、付近の漁民の船が壊れると、それを無償で修理したりなど、困っている人たちへ無償で様々な奉仕活動をしていました。

神本の説得に応じた豊のもとに、藤原機関から多額の軍資金が提供されました。
ところが豊は、受け取った軍資金を、まるごと近隣の村人たちのために使っています。

昭和16年(1941)、日本との開戦を予期していた英国軍は、日本軍がタイからマレー半島を縦断して進撃してくると想定して、マレー北部のタイ国境から30キロ南にある小さな集落、ジットラに、防禦要塞を建設しました。
その要塞までの道筋がジットラ・ラインで、英国のシンガポール防衛のための軍事施設群です。

そしてジットラには、強力な要塞が築かれました。
これら陣地建設現場に、ひそかに現地人としてハリマオの一党が浸透しました。
一党は、同じく防御陣地建設に狩り出されたマレー人労働者によびかけ、仕事に微妙に手を抜きました。
さらにトーチカの場所や地形などを詳しく調査し、精密な地図を作って日本軍に送りました。

完成したジットラ要塞について英国軍は、
「いかなる攻撃でも三ヵ月は持ちこたえる」
と豪語していました。
設計図通りなら、そうです。
しかしどんなに見かけが立派でも、中身が手抜き工事でスカスカで、内部の情報が筒抜けになっていたら、腐った老木と同じです。
いざ戦端が開かれると、わずか二日でジットラ要塞は堕ちてしまいました。
谷豊のハリマオ団の見事な工作と調査の賜物であったことはいうまでもありません。

英軍は、大東亜戦争開戦に先立って、タイ南部から上陸する日本軍を水際で阻止するためのマタドール計画という作戦も進めていました。
これは英軍の精鋭部隊が、密かに国境を越えて日本軍がやってくるのを待ち伏せて一気に日本軍のせん滅を図るという作戦です。
この作戦もハリマオ団によって、事前に詳細が洩れていました。
日本軍は開戦後、英軍を避けて悠々と上陸を果たしています。

この作戦にも明らかなように、「大東亜戦争は日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に準備万端整えて、手ぐすねひいて日本が軍事行動を起こすのを待ち構えていたのです。
むしろ戦争を避けるために当時必死の努力を重ねていたのは日本の方です。

昭和16年12月の大東亜戦争開戦からちょうど1ヶ月が経った頃、日本陸軍の藤原岩市参謀は、マレー北部の小さな村で、豊に会いました。
藤原はそのときのことを著書「F機関」に次のように書いています。
すこし引用します。

*******
「なに!。谷君が待っているのか。
 おれも会いたかった。どこだ谷君は」
私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。
数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。

私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、
「谷君。藤原だよ。
 よいところで会ったなあ。
 御苦労。御苦労。
 ほんとうに御苦労だった」
と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。

私がダム破壊工作の成功を称えると、谷君はこう答えた。
「いいえ。大したことはありません。
 ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は
 一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。
 それから山づたいに
 英軍の背後に出て参りましたが、
 日本軍の進撃が余りに早いので
 遅れがちになって
 思う存分働けなかったのが残念です。
 この付近では英軍の電線を切ったり、
 ゴム林の中に潜んでいる
 マレイ人に宣伝したり致しましたが、
 日本軍のために
 どれだけお役に立てたことでしょうか」

「君のこのたびの働きは、
 戦場に闘っている将校や、
 兵にも優る功績なんだよ」
というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、

「有り難うございます。
 豊は一生懸命働きます。
 私の命は死んでも惜しくない命です。
 機関長の部下となり、
 立派な日本男児になって死ねるなら、
 これ以上の本望はございません」
としみじみ述懐した。
(『F機関』176〜177頁)
********
 

藤原岩市参謀
藤原岩市参謀



マレーにおける特務機関の長である藤原は、当然、豊のつらすぎる過去を知っています。
どこまでの謙虚でいじましい豊の態度は、藤原の心に涙を誘いました。
しかしこのとき豊の体は、すでにマラリアに冒されていたのです。

初めての対面からおよそ一週間経った頃、藤原参謀のもとに、
「谷豊がマラリアを再発し危篤です」
という報せが届きました。
藤原は、豊と行動を共にしている神本に、即時、豊をジョホールバルの陸軍病院に移すよう命じました。

藤原は語ります。
「一人として大切でない部下はいない。
 しかし、わけてハリマオは、
 同君の数奇な過去の運命と、
 このたびの悲壮な御奉公とを思うと、
 何としても病気で殺したくなかった。
 敵弾に倒れるなら私もあきらめきれる。
 けれども病死させたのではあきらめきれない。
 私は無理なことを神本氏に命じた。
 『絶対に病死させるな』と」
(同247頁)

シンガポール陥落から数日経ったある日、藤原参謀は豊を見舞いました。

********
私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。
見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは、
「充分な働きが出来ないうちに、
 こんな病気になってしまって
 申し訳がありません」と謙虚に詫びた。
私は、
「いやいやあまりり無理をし過ぎたからだ。
 お母さんのお手紙を読んでもらったか。
 よかったね」
というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。
両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
私は更に、
「谷君。
 今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、
 病気が治ったら、
 軍政監部の官吏に起用してもらうことに
 話が決まったぞ」と伝えると、
ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ、
「私が! 谷が! 
 日本の官吏さんになれますんですか。
 官吏さんに!」
と叫ぶようにいった。

ハリマオの余りの喜びに、
むしろ私が驚き入った。
(同269頁)
*********

官吏というのは、今の国家公務員のことです。
盗賊として日本人から白眼視されていた豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだったのです。

開戦の一ヵ月前、豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いています。
日本を離れて長い年月を過ごした豊の手紙は、たどたどしいカタカナで綴られています。

「お母さん。
 豊の長い間の不幸をお許し下さい。
 豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで
 御安否を心配しております。
 お母さん。
 日本と英国の間は近いうちに
 戦争が始まるかも知れないほどに
 緊張しております。
 豊は日本軍参謀本部田村大佐や
 藤原少佐の命令を受けて、
 大事な使命を帯びて
 日本のために働くこととなりました。
 お母さん喜んで下さい。
 豊は真の日本男児として更生し、
 祖国のために
 一身を捧げるときが参りました。
 豊は近いうちに
 単身英軍の中に入って行って
 マレイ人を味方に思う存分働きます。
 生きて再びお目にかかる機会も、
 またお手紙を差し上げる機会も
 ないと思います。
 お母さん。
 豊が死ぬ前に
 たった一言、
 『いままでの親不幸を許す、
  お国のためにしっかり働け』
 とお励まし下さい。
 お母さん。
 どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。
 そしてお母さん。
 長く長くお達者にお暮らし下さい。
********
 

谷豊とその家族



昭和17年3月17日、谷豊は永眠しました。
享年30歳でした。
臨終を見守っていた配下のマレー人が、このとき日本軍に求めたのは、たった二枚の白い布だけだったそうです。
それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものでした。
豊の棺は、部下たちに担がれて病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬されました。

藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていました。
そこで豊の訃報を受け取りました。

「北部マライの虎として
 泣く子も恐れさせた彼は、
 マライの戦雲が急を告げるころ、
 翻然発心して
 純誠な愛国の志士に還った。
 彼は私の厳命を遵守した。
 彼は勿論その部下も、
 私腹を肥やすことも、
 一物の略奪も、
 現住民に対する一回の暴行も
 犯すことがなかった。」
(前掲書)

近年マレーシアのテレビ局が、ハリマオ=谷豊の特集を放映したそうです。
その番組の最後には、次のような言葉が流れたそうです。

「イギリス軍も日本軍も
 武器ではマレーシアの心を
 捉えられなかった。
 心を捉えたのは、 
 マレーを愛した
 一人の日本人だった」

写真は、豊の家族の写真です。左端が豊。左から三番目が亡くなられた妹さんです。
谷豊の御霊は、いまも英霊として靖国に祀られています。

お読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

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