大和心を語るねずさんのひとりごと さんのブログより

 

日本が生まれ変わるためには遷都を考える必要があります。
我が国は古代において、むしろそれを常識化していました。

 

 

 

学校では日本の首都は東京だと教えています。
しかし、ではなぜその首都の名前が「東の京」を意味する「東京」なのかは教えません。

東京に都が移る前は、京都が都だったと誰もが教わっています。
このことは現代日本人のおそらくは常識であろうと思います。

ところが「京」の訓読みは「みやこ」、都の訓読みも「みやこ」です。
ですから「京都」は「みやこのみやこ」ですから、文字だけを見れば、まるでいまでも京都は日本の都のようです。

実は正解は、現代日本では、東京も京都も、どちらも都(みやこ)です。慶応4年7月17日(新暦1868年9月3日)に、江戸が東京と改称されました。
そして同年9月に元号が明治に改められました。ですから慶応4年は、明治元年です。
そしてこの年の10月13日に天皇が東京に入られました。
これを「東京奠都(とうきょうてんと)」と言います。

「奠都(てんと)」は耳慣れない言葉ですが、都を京から東京へと移転させる「遷都(せんと)」と違い、この場合は、京都も東京も、どちらも都になります。

「奠都」の「奠(てん)」という字は、「香奠(こうでん=香典)」にも使われますが、この字は「酋(樽酒)」を台に乗せて神に供える動作の象形です。
つまり京都に都を置く日本が、東京をも神々に捧げるから「奠都」です。

そもそも江戸という地名がありながら、どうして東京という名称になったのかといえば、理由が二つあります。
ひとつは、江戸が「えど」であるという理由です。戊辰戦争のあと、江戸に、明治天皇がおこしなられるのですが、天皇がおわす場所となれば、それは聖域です。聖域が「えど(穢土)」では話になりません。
 

ふたつめの理由は、戊辰戦争で国内が二つに割れたからです。
このことは慶応4年7月17日(新暦1868年9月3日)の「江戸を称して東京と為すの詔書に明確に書かれています。

「江戸を称して東京と為すの詔書」
   明治元年七月十七日
   法令全書第五百五十七
   詔書
 朕今万機を親裁し 億兆を綏撫す
 江戸は 東国第一の 大鎮四方輻湊の地
 宜しく親臨 以て其政ヲ 視るべし
 因て自今 江戶を称して 東京とせん
 是朕の 海内一家 東西同視する所以なり
 衆庶 此意を体せよ

「海内一家東西同視(国内をひとつの家族として東西を同一視する)」と述べているのが、戊辰戦争で国が二つに割れた(官軍と幕軍)ことを指摘された御言葉です。

さて、いまでも京都と東京は、どちらも我が国の首都であると述べました。
一方、明治以降、度重なる戦乱についで、戦後は日本的な統一国家である誇りも自負も失われ、国会はもりそばがいいかかけうどんが良いか、Me Tooとか言いながら審議を拒否する馬鹿者が国会議員となり、本来は行政の要であるべき省庁政府の官僚が(全部とは言いませんが)実は腐り果てた反日であることが露呈(元文科省の高官など)するなど、目も当てられない状況が続いています。

古事記を読むと、上古の昔において、そうした情況となったとき、極めて思い切った国家戦略が採られていたことが書かれています。
それが中つ国における政治行政機能の出雲から日向への移転です。

このことはひとくちに天孫降臨と言われますが、古事記の筋書きは、その前の国譲りで、出雲王朝が偉大かつ広大な領土を持つ政治行政経済あらゆる面における巨大国家であったことを示しています。そしてその巨大国家を国譲りする際、国家最高権威として降臨された迩々芸命(ににぎのみこと)は、出雲ではなく、日向の高千穂に降臨され、そこに都を築いています。

古事記の筋書きを概略すれば、大国主神話が築いた出雲王朝は、経済流通を中心に置いた商業物流国家であったことが文脈で示されます。
大国主神話は、因幡の白ウサギの物語から始まりますが、古事記の原文ではウサギは「菟」と書かれています。ご覧いただいて分かる通り、「菟」はクサカンムリです。これは動物のウサギのことではなく、ネナシカズラを意味する漢字です。

ネナシカズラは、寄生樹といって、大地に根を張らずに樹々に寄生して生える植物です。
昔はお百姓などの農林水産業に従事する人々を土地に根付いた人たちとし、行商などを行なう人たちのことは、雀(すずめ)などと呼ばれました。よく、城下町などでは古い町名に「連雀町(れんじゃくちょう)」という名称が残っていますが、これはいまでいう問屋街だったところです。

そこに、背中に荷物を入れる籠(かご)を背負った行商人さんたちが出入りします。問屋で品物を仕入れて、籠に荷物をいっぱい入れて、また出かけて行くのです。その歩く姿が、スズメのようにぴょんぴょん跳ねているようにも見え、そういう人たちが連なっているから、町の名前が連雀(れんじゃく)と呼ばれるようになりました。

しかし、よくよく考えてみれば、その姿は、スズメではなく、ウサギにも似ているわけです。
つまり「菟」は、行商人であると読めるのです。

その「菟」が騙した相手のワニは、近年ではサメの誤記ではないかなどと、わかったようなことをいう先生もおいでになりますが、古事記は明確に「和迩(わに)」と書いています。
そして古い縄文時代の日本文化をそのまま継承しているといわれるポリネシア地方の現地語では、アウトリガー付きで帆を張った船のことを「Wanyui」と言います。つまり「ワニ」です。
また、古い日本語で「和迩船」といえば、和船の帆掛け船のことをいいます。

つまり、
 ウサギは、陸上の行商人。
 ワニは、海上の行商人、
と読めるわけです。
そしてそこからはじまる大国主が築く大帝国は、商業国家であったと読むことができるわけです。

ところが商業は、これはその根本的宿命として、できるだけ仕入れを叩いて、売値を釣り上げれば儲かるという仕組みです。
そうであれば、生産者である農林水産業に従事する人たちは、常に買い叩かれる立場となります。
人口構成からしたら、商人の数より、一次生産に従事する人たちや、その加工をする人たちの人口の方が、圧倒的多数です。

しかし、商業主義国家なら、その圧倒的多数の人々はつねに貧困下に置かれ、特定の商人やその商人たちを支配する者だけが、大金持ちとなって、巨大な政治力を発揮できるようになります。
すると社会は、ほんのひとにぎりの大金持ちと、その手先となって働く人、そして圧倒的多数の貧しい人々という構造になります。

高天原が問題にしたのは、ここであったということができます。
すべての人々が、神々の子孫です。
高天原でいえば、末端の人たちは、全員が天照大御神の「たから」であり、神々です。
そうであれば、地上に暮らす人々も、全員が天照大御神の「たから」です。
その「たから」たち、それも圧倒的多数の「たから」たちが、貧困下にあって、ほんのひとにぎりの人たちだけが、まるで我が世の春ともいえる贅沢な暮らしをし、強大な政治力を発揮して、地上世界を我が物にしている。

それではいけないから、天照大御神は、天孫降臨を命じるのです。

そして天孫降臨された迩々芸命は、技術集団である五伴緒(いつとものを)の神を連れて降臨されます。
このとき、都を出雲ではなく、日向に置くのです。

問題は、なぜその場所が日向だったのか、です。
国譲りのとき、大国主神のおいでになる出雲は、すでに政治経済行政の中心地として、完全に確立されていたであろうことは、論を待たないと思います。

しかしそれらがすべて、結果として一部の人たちの収奪と圧倒的多数の民衆の貧困のための機構になっているのだとしたら、すべてを御一新する必要があるわけです。
だから日向に都と、都として必要なすべての政治経済行政機能を、あらためて別に築いたということができます。

そしてその成功体験が、天皇が代わるたびに都が移されるという古代の習慣となったし、藤原京、平城京、平安京への遷都にもなったし、武家政権誕生後は、政治行政の中心地としての鎌倉幕府や江戸幕府の誕生になっているということができます。

こうした歴史は、我が国の神話に基づくものです。
日本が生まれ変わるためには遷都を考える必要があります。
我が国は古代において、むしろそれを常識化していました。

江戸時代後期の国学者、佐藤信淵(のぶひろ)は、文政6(1823)年に『宇内混同秘策』という本を書きました。
そこでは、日本を三都制にすべしと説いています。
場所は、江戸、大阪、京都の三箇所です。
これにともない名称も江戸を東京、大阪を西京、京の都を京都と改称するように提案しています。
大久保利通は、この『宇内混同秘策』に影響を受けて、江戸を東京と改称することを建言しています。

しかしいま必要なことは、東京、大阪、京都に拘泥しない、抜本的な改変なのではないかと思います。
なかでも東京は、首都圏直下型地震が、いまにも起きそうな予測がされているところです。
早い段階での移転が望まれます。

また、新首都、および、移転後の東京については、徹底した緑化事業を並行すること。
ミニ開発の乱発で、緑のない首都など、言語道断です。
新首都は、徹底して計画的な都市開発を行い、交通渋滞やラッシュを防ぐ工夫が必要です。

しかしすべてを一新する遷都は、同時に日本が良くなるためのものでなければなりません。
そうであれば、遷都の前に、まずは戦後的日本の常識を変えていく戦いが必要になります。
日本とは何か。
そのことをしっかりと踏まえることが、遷都に優先すると考えられるのです。
国会を政局としてしか考えず、もりそばやかけうどんしか議論できないような幼稚園児にも劣る議会や、省庁の高官が左翼カルトに染まっているような情況で遷都をすることは、ただの利権の奪い合いの議論にしかなりません。

そしてそのためには、私権の制限は当然のことになると思います。
その私権の制限については、明日書きます。