管野
中央が菅野寛也さん


 NHKラジオの「明日へのことば」の番組を、若い人の目に留まるかと思われ投稿を続けていられる方のブログより

2017年8月19日土曜日

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】


真珠湾、たったひとりの慰霊祭

 84歳、少年時代2000人以上が犠牲になった静岡空襲を体験した菅野さんは、昭和47年から45年間にわたって空襲の犠牲となった市民と、静岡市内に墜落したB29のアメリカ軍兵士の合同慰霊祭を続けて来ました。平成3年からはハワイの真珠湾を毎年訪問し、真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの上に作られた記念館、アリゾナメモリアルで日米戦没者の慰霊を続けています。
その活動は年々広がり、去年初めて開かれた日米両国の公式の追悼式典の実現に繋がりました。
安陪総理大臣とアメリカの当時のオバマ大統領の共同会見も行われ、菅野さんも出席しました。
菅野さんは敵味方無く死者を悼むことこそ、平和への道筋だと考えています。

聞き手の紹介のあと、お話が続きます。


 静岡に空襲のあった6月に静岡で、真珠湾攻撃のあった12月にはハワイで、それぞれ慰霊祭を開催しています。毎年200人ぐらい、横田の米国軍の人達40~50人ぐらいが参列してくださっています。

 真珠湾の方は真珠湾攻撃の生き残り、生存者協会があるが、一般の人も多くなった感じです。
小さいが厳かな雰囲気で行われます。

 鎮魂慰霊ということは国境とか民族、時代も越えて、人類共通の気持ちだろうと思います。
静岡では日米双方に犠牲者が出ている、日本の市民だけの慰霊祭をやっていたらアメリカの人たちにはその気持ちは通じないです、逆も同じです。死んでしまえば敵も味方もない。両国の合同慰霊祭をやらなければ、ほんとうの和解とか理解は得られないんじゃないかと思います。

 当時11歳、毎晩B29が大編隊で空襲に来ました。富士山を目標に来ていて、東京がまたやられているなあと言っていました。

 11時過ぎにラジオで少数機が伊豆半島を西北進行と云う放送が入って、父がこれはいつもと違うと言ってました、市の中心街に火の手があげりました。(焼夷弾攻撃)安陪川に逃げて、河原の近くにあった土管の中に隠れていました。

 「落ちるぞ」と云う声があり、爆弾かと思ったら敵機が衝突して落ちたようだった。一機が安陪川橋の近くに、もう一機、川向こうによたよた飛んで行った。町は黒こげの真っ平らな土地だった。(皆焼けてしまった)防火用水の中に上半身を突っ込んで黒こげで死んでいるのを見ました。敵愾心もわいてきたし、これでは戦争は負けではないかと思ったりしました。

 アメリカ軍23人いたが、何人かの遺体をみました。中には石をぶつける人もいました。私はこいつらも戦争の犠牲者だとは一瞬思いましたが、口には言えませんでした、回りから袋叩きに会いますから。

 祖父が日露戦争で満州で戦っていたときに、弾が飛び交う中で、ロシア兵の戦傷者にも手当をしたと、これが軍医の務めだと、私が小さい頃祖父から聞いていました。敵兵だけどもし生きていれば祖父だったら手当をしたんではないかと私は考えたんでしょうね。

 昭和47年に静岡市で初めて日米合同慰霊祭をしました。医者になって静岡に帰って来て、浅間神社のある賤機山(しずはたやま)に登った時に、平和観音像の横にB29墜落登場者の碑を見て、一瞬思い出したが、慰霊碑を建てた人がいたことがびっくりしたと同時に山の上に石文を作る人が凄い人だなと思いました。

 伊藤福松さんが建てたということが判り、話をしたいと思いました。死んでしまえば敵も味方もないということでした。伊藤さんは当時市会議員だったそうで、伊藤さんのお兄さんの桑畑に落ちたそうです。最初木の十字架を立てたそうですが、その後伊藤さんはB29の死者を弔うために修行をして坊さんになったと聞いています。私財をなげうって、静岡市民のための慰霊の観音像と、B29の石文の碑をつくったということです。

 米軍にそのことを連絡して、2~3人と後で電話がかかってきて、アメリカ兵の人たちと一緒に慰霊祭をやりませんかということで、大使館の人を含めてバス2台で80人ぐらい来ました。それが日米合同慰霊祭のスタートでしたが、抵抗はありました。

 間接的にもありましたが、直に私の方に2~3人来て言われました。あるおばあさんが最初反対だったが、2から3年してから有難うと私に言って下さって、判ってくれて良かったと思いました。あとの懇親会で、ある人が「ここへきて日本に対する印象が全く変わりました、有難うございました」と言ってくれました。

 亡くなった方は新婚早々の御主人だったそうです。それを聞いた時には慰霊祭をやって本当によかったと思いました。遺品の軍用水筒、燃えさかるB29の中で関節の跡までくっきりと残っている、死の瞬間まで握っていたんでしょう。たった一つの遺品で、慰霊祭の時にバーボンを入れて慰霊碑に注ぐというセレモニーを行っています。

 兵士の死の瞬間を記録するような水筒でも水はもらない。墜落しないで帰っていたら、バーボンを飲んでいるだろうなと思って、この水筒にバーボンを入れて献酒する、インパクトの強い行事のようで献酒をしてきたことが広がるわけです。この水筒は宝物、平和の武器かもしれません。

 慰霊祭、鎮魂式、戦死者に対する行事は、よりアメリカでの反響の方がはっきりしている。評価してくれています。真珠湾攻撃ではアメリカ側は民間人を含む約2400人、日本側は65人でした。平成3年(日米開戦50年)ハワイの真珠湾でも慰霊を行おうと決心しました。

 戦争のはじまった土地で慰霊祭をするということは意義があるのではないかと、その年の夏にハワイに行きましたが、大変厳しい空気でした。想像はある程度していたが、アメリカ人に知ってもらわなければならないと思って、自分はこういうことをしている知ってもらいたいと思って、12月にたった一人で慰霊に向かいました。

 聖水を桟橋で献水して帰って来ました。(たった一人の慰霊祭)一回だけでは意味がないと思った。(続けなければ成果は出ないと思いました)恨みつらみはあると思います、数年は突っかかって来る人はいました。

 しかし、水筒を見せて、説明をすると全然ガラッと変わってしまいます。日本に対するイメージを打破しようと、そういう意味では20数年かかったけれども、それなりの目的、成果はあったと思います。2年目からはアメリカ海軍の人たちがプライベートでエスコートしてくれました。
だんだん広がってきて、たった一人で慰霊祭で行ったことが、きっかけにはなったかなあと思います。あなたと水筒がない後始まらないよといわれました。

 日米双方の戦死者の慰霊をアメリカの海軍と日本の領事館の主催で行われ、80名ぐらいでやりましたが、びっくりしたのは両国の国旗が入場してきて、両国国家の吹奏が行われました。

 恨みつらみのある場所で君が代を聞いた時は身震いするほど感激しました。12月には日本の総理大臣とアメリカ大統領が真珠湾で一緒に戦没者の慰霊が行われました。もっと早く実現してほしかったなあと思うことと、安陪総理もオバマ大統領もまず第一に慰霊鎮魂と云う意を表してくれました。

 かつての敵同士は本当に心底から理解しあえるかどうか、判りませんがお互いの犠牲者を鎮魂するということは、心に伝える行事だから、親善だとか、和解だとかの結果をもたらすには、まず第一にそのようなことをやらなければ始まらないと思います。心が通じなければそれ以上は進まない。

 謝罪と云うことは物凄く難しい、謝罪をしても謝りにならないこともあるわけです、却って恨みつらみに火を付けることもあり、難しい。

 あと、何年続けられるか、できるだけ続けられるように活動するのが目標です。

 国家とか自治体とか、力を持った者が顔を向けてほいいです。
私がいけなくなった時にはどうしようとすることは、相談しようと思っています。

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静岡空襲の犠牲者悼む 賤機山で合同慰霊祭
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/373782.html


パールハーバー「黒焦げの水筒」慰霊祭 | モーハワイ コム
http://www.mo-hawaii.com/category/veteran/75993