ねずさんのひとりごとさんのブログより

久松五勇士
久松五勇士

久松五勇士(ひさまつごゆうし)というのは、戦前は教科書にもあって、誰もが知っていたお話です。
日露戦争での日本海海戦でのときに活躍した、沖縄は宮古島の5人の勇者の物語です。

日露戦争は、もともと日本としては戦いたくなかった戦いです。
李氏朝鮮王朝が、内部の権力闘争のために、日本や清国、ロシアを巻き込んで、いい加減な態度を取っていたことが原因で、結果として日本が矢面に立たされてロシアと対決せざるを得なくなってしまうのです。

ロシアにしてみれば、まさに鎧袖一触で、日本など叩き潰すくらいの勢いがありました。
そのロシアは、朝鮮と陸続きです。
一方、日本は海を渡らなければ、半島にも大陸にも渡れません。
ですからロシアが日本との戦争に勝つためには、日本の海軍力を叩き潰す、もしくは海上を封鎖しさえすれば、完全に戦いはロシアのペースで行うことができるようになるわけです。

そしてこのためにロシアは、当時、世界最強とうたわれた黒海のバルチック艦隊を日本に向けて進発させました。
当時のロシアには、ウラジオストクに太平洋艦隊があります。
この太平洋艦隊と、バルチック艦隊が合流すれば、日本との戦いは、まず勝ったと同じことになります。

逆にいえば、日本はなんとしてもバルチック艦隊がロシア・太平洋艦隊と合流する前に、これを叩かなければならなかったわけです。
ところが、はるばる喜望峰を超えてやってきたバルチック艦隊を、日本はフィリピンのバシー海峡あたりで見失ってしまうのです。

「バルチック艦隊はどこに行ったのか!?」
もしかするともうすでにウラジオストクに到着したのではないか。
太平洋を迂回するのではないか。
日本海を直進するのではないか。
さまざまな憶測が乱れ飛びました。
レーダーなどない時代です。
敵艦は、目で見て発見する以外、他に方法がなかったのです。

当時の日本海軍には、八方に手をまわして警戒、防衛、迎撃体制をとるだけの余裕なんてありません。
それどころか、バルチック艦隊と戦うためには、日本は海軍力を集結させなければなりません。
ところが集結させるということは、つまり一か所に集結するわけで、その集結している場所以外のところをバルチック艦隊が通過したら、もはや日本に勝機はなくなります。

そういう情況にあった明治38(1905)年5月23日、宮古島の沖合で漁業をしていた奥浜 牛(おくはま うし)という青年が、バルチック艦隊の船影を目撃しました。
彼の乗った小さな帆かけ船の向こうを、バルチック艦隊が通過したのです。

このときバルチック艦隊も、彼の乗った船を目撃したことが記録されています。
しかし、たままた彼の乗った小船が、龍の絵柄の大漁旗を掲げていたこと、彼が沖縄の海人独特の長髪であったことから、艦隊は彼を、なんと支那人と勘違いして、放置してくれたのです。

バルチック艦隊の通過を見届けた奥浜青年は、網をあげて、宮古島の漲水港(現・平良港)に入港しました。
それが5月26日の午前10時頃のことです。
彼は、漲水港の駐在所で状況を話し、すぐさに駐在所の警察官と一緒に、宮古島の役場に駆け込みました。

宮古島役場は、大騒ぎとなりました。
いま、日本海軍が躍起になって探しているバルチック艦隊を発見したのです。
すぐさま日本海軍に報告しなければなりません。

ところが、当時の宮古島には通信施設がありません。
役場の重役たちは、島の長老達と会議をひらき、すぐさま石垣島にこの情報を知らせようと決定しました。
なぜなら石垣島には郵便局があり、そこからなら無線電報で日本海軍に知らせることができるからです。

しかし宮古島から石垣島までは、海上170キロの距離です。
当時は、モーターボートも飛行機もヘリもありません。
あるのは、サバニと呼ばれる手漕ぎ船だけです。
サバニというのは、全長9メートル足らずの細長い丸木舟です。

長老たちは、宮古島の島民の青年から、屈強な若者5人を選抜しました。
選ばれたのは、松原村の垣花善(かきか よし)と垣花清(きよ)の兄弟、それに与那覇松(よなは まつ)と、与那覇蒲(よなは かま)の兄弟、久貝原村の与那覇蒲(同姓同名の別人)の5人です。

5人は、すぐに宮古島を出港しました。
15時間、ぶっとおしで丸木舟を漕ぎに漕いで、ようやく石垣島の東海岸に到着しました。

ところが、せっかく石垣島に着いたのですが、遠浅の海が折からの干潮のために港を入れることができません。
やむをえず彼らは、潮が満ちるのを待って、ようやく港に船を付けます。
到着した時には、さすがに全身の骨が砕けるかと思うほど、5人ともくたくたに疲れ切っていたそうです。
さもあらんと思います。

5人は、さっそく港の住民に郵便局の場所を尋ねました。
ところが聞けば、港から険しい山を越えた島の反対側に局があるというのです。
電話も車もありません。
5人は、疲れた体にムチ打って、30キロの山道を5時間かけて、走って峠越えをしました。
そしてようやく27日午前4時に、八重山郵便局に到着します。

局員は、5人から文書を受け取り、すぐに電信を那覇の郵便局本局へ打ちました。
電信はそこから沖縄県庁に転信され、そこから東京の大本営へと伝えられました。
そのときの電文です。

「五月ニ八日午前七時十分 八重山局発
 五月ニ八日午前十時 本部着

 発信者 宮古島司、同警察署長
 受信者 海軍部

 本月二十三日午前十時頃、
 本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、
 柱、二、三、
 煙突二、三、
 船色赤ニ 余ハ桑色ニテ、三列ノ体系ヲナシ、
 東北ニ進航シツツアリシガ、
 内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。

 但シ、船旗ハ不明。右、報告ス。」

実際には、同じく28日午前4時45分に、海軍に徴発されていた日本郵船の貨客船「信濃丸」が、「敵艦見ユ」の文句で有名な、
「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電し、これが海軍軍令部が確認した最初のバルチック艦隊発見の報告となりました。
久松五勇士の報告が軍令部に着いたのは、午前10時なので、約4時間遅れたことになります。

しかし、最初の発見者の奥浜 牛と、宮古島の5人の若者の活躍により、信濃丸の報告と相まって、バルチック艦隊の航路が完全に大本営によって把握されました。
そしてこれによって、日本海軍は、日本海での大決戦を挑み、見事、バルチック艦隊を葬り、陸軍の大陸での活躍を実現させ、日本を日露戦争の勝利者へと向かわせることができたのです。
そして日露戦争における日本の勝利は、世界中の被植民地支配を受ける諸国民に勇気を与え、そのことが世界から植民地支配を失わせる大きな人類史上の大きな岐点となっていったのです。

この宮古島の5人の若者の活躍は、いまどきの「自分さえよければ」という考えからは、絶対にできない活躍です。
彼らが15時間もかけて、荒海を手漕ぎ船で乗り越え、さらに陸にあがって5時間も駆けに駈けたのは、彼らがたとえ本土から遠く離れた島の漁師であったとしても、公に奉じるという国家意識を明確に持っていたからだからです。

火事場の馬鹿力という言葉がありますが、自分の利益のために火事場の馬鹿力を出せる人というのは、むしろマレです。
人は誰かのためにと思ったときに、通常では出し得ない底力を出すことができるのです。

こうして彼ら久松五勇士の活躍は、学校の教科書にも掲載され、日本本土だけでなく、満州や台湾、パラオ、フィリピン、インドネシアなど、日本が統治した諸国の教科書でも広く紹介されました。

ところが久松五勇士に関する記述は、戦後GHQによる干渉がはじまると、すぐに教科書に、真っ黒に墨を塗られ、以後、教科書から完全に姿を消してしまいました。

船形顕彰碑

上の写真は、元海上自衛官の方が宮古島を訪れた際に撮影された、久松五勇士の舟形の顕彰碑です。
この方は、この顕彰碑を見て、次のように語られました。

「フネを支える5本の柱の一本一本が5勇士なのです。
 この碑を見た時、私は船乗りとはフネに乗っている者ではなく、
 この舟形を支える柱のように、フネを海に浮かべ続け、
 海のを乗り切るためにフネを支え続ける者たちなのだ
 と思ったものです。
 雨、風、波の中で、
 フネの中に入って来る水(船乗りはアカと呼びます)を
 ひっきりなしに汲み出さねばフネは沈んでしまいます。
 また海の上では浮かんでいるだけでは
 到底目的地に到達できません。
 潮流、風波の影響を考慮しつつ
 目に見えぬ目的地を思いつつ
 そこへの修正針路を取らねばなりません。
 久松5勇士はそのような意味に於いても、
 勇敢かつ稀有なる船乗りであり、
 宮古の人たちだけでなく、
 日本人が一様に誇りとできる勇者達です。」

古来日本では、ただ強いだけだったり、腕が立つ人、あるいは度胸のある人のことを勇者とは呼びません。
責任感が強く、みんなのためを思って努力を惜しまない人。
そういう人を勇者と呼びました。
そしてそういう人こそが、世界的に見ても、やはり本当の勇者なのだと思います。