zeraniumの掲示板さんのブログより


関東大震災の歴史の闇をひも解くと、現代日本における危うさを垣間見ることができる。それは想像したくもない阿鼻叫喚の地獄である。
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関東大震災  不逞朝鮮人暴動の真実
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   強制連行や従軍慰安婦という言葉も、今や事実ではない単なる捏造であったことが明らかとなり、それが固まりつつある。そしてこの関東大震災時の朝鮮人虐殺ということに関しても、今さまざまな事実が明らかとなっている。東京は言うに及ばず、横浜一帯も酷く被害を受けていたことが、当時のさまざまな写真や記事、文献から伺い知ることができる。
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   まず不思議だったのは、工藤美代子氏の『関東大震災 鮮人虐殺の真相』という本の冒頭には、灼熱地獄の様相が描かれているが、それがいかに大きな地震であったかということがわかる。だが家屋の倒壊などに比べると、猛火に焼かれて亡くなる人がいかに多かったかということである。辺り一帯が火の海となり、結局、その猛火で何百、何千、何万という人が焼かれて亡くなった。
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   だがそれについて後から明らかとなったことでは、その火事は自然発生的に起きた火災ではなかったことである。それは多くの朝鮮人による放火によるものであり、その火事で何万人もの人々が命を落としたのである。
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★大正12年9月15日(1923年9月15日)大阪毎時新聞社
   写真は京橋第一相互ビルディング屋上から見た、当時の日本橋及び神田方面の惨状の写真
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   「関東大震災(大正12年)時、デマに惑わされた日本人暴徒が多数の朝鮮人を虐殺した」 これが日本の学校教育等で教えられてきたことであり、日本人の現代史の汚点とされている。だが事実はその真反対であり、不逞朝鮮人によるテロにも等しい集団暴力事件だったのだ。
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   それに対して政府からは軍が出動し、日本人は自身の家族を守るために自警団を組織してそれに対抗した。そして不逞朝鮮人と自警団、軍隊との衝突は激烈を極め、双方に大きな被害が出て死者も出た。朝鮮人には左翼組織との連携があり、そのことから彼らの暴動は偶発的なものではなく、計画性があったことがわかる。
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   後に左翼学者による不逞朝鮮人の暴動の隠蔽工作が行われ、一般朝鮮人被害者数の水増し工作が行われた。これは無実の一般朝鮮人を巻き添えにしたという、日本人の良心の呵責を利用するためであった。それは疑問や反論などは一切許さない「タブー」として、日本人が悪いという印象操作を行うことで、お人よしで人を疑わない日本人を騙し、こうして世論は不逞朝鮮人と左翼の狙い通りとなっていった。
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   だが当時の新聞などを調べるとその真実が見えてくる。
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★大正12年(1923年)9月3日 <号外> 庄内新聞
   『不逞鮮人 益々拡大
   不逞鮮人300余名が手に手に爆弾を携えこれを投じ、或いは放火した』
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   『全暴徒の一隊が爆弾を投じ放火せりを目撃』
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★大正12年(1923年)9月3日 下越新聞
   『鮮人一味、上水道に毒を散布』
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   『囚人300名脱獄し、鮮人と共に大暴状』
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★大正2年(1923年)9月3日 <号外> 小樽新聞
   『不逞鮮人各所に放火。石油や爆弾を携えて』
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★大正12年(1923年)9月4日 新愛知新聞
   『鮮人の陰謀、震害に乗じて放火』
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   『発電所を襲う鮮人団』
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.   『不逞鮮人1千名と横浜で戦闘。歩兵1個小隊全滅か』
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★大正12年(1923年)9月3日 <号外> 大阪日新聞
   『不逞鮮人が暴徒となって放火していると伝える』
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★大正12年(1923年) 新愛知新聞
   『屋根から屋根へと鮮人が放火して廻る。
   鮮人が盛んに悪いことをしているのは憎むべきことで、屋根から屋根へ渡って火を放っているようなありさまで・・・・』
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   『鮮人浦和高校に放火』
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   『列車爆破を企む。不逞鮮人の自白』
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   そして報道規制が解かれた翌日、
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大正12年(1923年)10月21日 読売新聞
   『震災の混乱に乗じ、鮮人の行なった凶暴
   略奪、放火、殺人、凶器、爆弾、毒薬携帯、婦人略奪』

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   こうした記事を在日朝鮮人は捏造と発言しているが、当時の報道規制が解かれて世の中が落ち着いてきたとはいえ、それでも鮮人の行なった事件を各地の新聞は報道していることから、この記事内容は真実である。
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★大正12年(1923年)10月22日付 東京時事新報
   『記事差し止め解除を受けて鮮人の事件を伝える。
   関東一帯を騒がせた鮮人暴動の正体はこれ。
   放火、殺人、暴行、略奪に次ぎ、橋梁破壊も企てた不逞鮮団』
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★大正12年(1923年)10月22日付 東京時事日報[21]
   『政府による記事差し止めが解除されたことを受けて事件の正体を報じる』

工藤美代子氏が検証した「関東大震災 鮮人虐殺の真相」
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   「関東大震災の時の流言飛語に惑わされた日本人自警団が、何の罪もない多数の鮮人を虐殺した」とする説があり、だから「多くの日本人はこの事件にある種のうしろめたさを感じていることから、そのためにキチンと向き合って検証してこなかった」というものである。それに対し、大震災から86年後に作家の工藤美代子氏が初めて、この困難な作業に挑んだのである。
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   まず工藤氏は当時の日韓関係の中で、鮮人のテロや日本人の襲撃が決して根拠のない流言飛語ではなかったことを、多くの資料や新聞記事から立証した。工藤氏は「まず鮮人による襲撃があったからこそ、殺傷事件が起きたのであり、テロリスト襲撃から家族や町内を守るのは正義である」と断定している。
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   殺傷された鮮人の数の検証において、当時の吉野作蔵が2813人と書き、一方上海に亡命した大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」は6419人と書いた。そして今回の取材中に工藤氏は、ロンドンのナショナル・アーカイブスにおいて、朝鮮独立運動派が諸国の外交官にばら撒いた謀略宣伝用の小冊子を発見した。そこに書かれていた数字は、何と2万3059人であった。
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   では当時東京には、何人の鮮人がいたかというと、政府統計によれば東京に約9千人、近県に約3千人である。そして警察署などに保護された鮮人は6797人であるが、この数字からだけでも、彼らの言う殺傷されたとする鮮人の数が、いかに根拠のないものであったかがわかろうというものだ。そして工藤氏がロンドンで発見した謀略宣伝用の小冊子には、殺傷の様子が次のように書いてあった。
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   「彼ら日本人自警団や民衆は、鮮人を電柱に縛りつけ、眼玉をくり抜いて、鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした」
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   この表現はまさに、どこかで聞いたり読んだりしたような記述ではないか。

★庄内新聞 <号外>9月3日 
★新愛知新聞大正12年9月4日

『「関東大震災鮮人虐殺」の真実』の評:花田紀凱(『WILL』の編集長)
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   「横浜から品川方面へ鮮人の集団が刀や爆弾を持ち、暴れまわって婦女を強姦していたという事実を追及していくと、この騒動の実態が見えると思われる」
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   「一連の調べで、習志野と江東地区で、間違いなく不穏な動きがあったことは間違いないと思われる」
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   「震災で泣き叫ぶのを聞いても、彼らは革命歌を歌っていた」
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★大正12年10月21日 読売新聞
   「司法当局が鮮人の犯罪を報道することを規制し圧力をかけた決定的証拠。
   10月20日、ようやく自由報道が解禁され、真実を報道し始めた」
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   こうして数多く報道されてきた鮮人の犯罪は事実であるばかりか、さらには四ツ木で鮮人が少女を輪姦したうえに殺害し、荒川に放り投げて逃走したという恐ろしい記事も書いてある。
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★読売新聞 大正12年10月21日
   「日本橋の倉庫に鮮人が火を放ち逮捕される」
   「深川の食料倉庫で時間をおいて火の手が上がったのも、鮮人の同時多発テロであったことを裏付ける事実である。
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                  引用元『SAPIO/2008/5/28』

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   この時期、作家の芥川龍之介が自殺した。
   彼はこうした世相の混迷における中で、そうした危機感を全く取り上げることもない野蛮な文学者に対する自らの憤怒の行方として自殺を選んだと言っている。また甘粕事件で殺されたアナーキストの大杉栄などが水面下で暗躍し、特高に目をつけられていたりした。
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   そして急進的な共産主義者による民族的解放運動が朝鮮半島に起き、その余波が日本にも波及しつつあった。つまり、社会主義、共産主義者たちが裏で暗躍し、鮮人の暴動と連携して日本に暴動を起こしたということが、今や周知の事実なのである。
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朝鮮民族の大量移入
  在日朝鮮人の人口推移

    明治42年       790人
    大正4年       3989人
    大正5年       5638人
    大正6年     1万1501人
    大正7年      2万2262人
    大正8年        2万8272人
    大正9年         3万0105人
    大正10年        3万5876人
    大正11年        5万9865人
    大正12年         8万0617人
    大正13年       12万0237人
    大正14年       13万0710人
    大正15年       15万8503人
    昭和2年        17万5911人
    昭和16年      146万9230人
    昭和19年      193万8413人
(ただし密航者や住所不定者もいるので、これよりずっと多い可能性が大)
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関東大震災直後の暴動の頻発
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   (略)朝鮮半島は火薬庫と化し、ロシア革命後、共産主義者と社会主義者、それに朝鮮人が連携するようになった。暴動は横浜から始まった。東京の新聞社はすべて倒壊し、とても一朝一夕には新聞を発行できる状態にはなかった。市街地は火の海と化し、建物が倒壊する中、住民たちは火に焼かれて死んでいった。そうした中で、情報は口から口へと伝わる不穏なニュースばかりであり、それが瞬く間に広がっていった。
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   大震災は大正12年(1923年)9月1日の正午ごろに起きた。
   だが驚くべきことに、朝鮮人の襲撃はその日の夜にはすでに始まっていたのである。それはまさに首都が壊滅した好機を見計らって計画的に乗り込んで来たのであり、その意気込みがどれほどであるかがわかろうというものだ。不逞鮮人は日本を壊滅させるべく、乗り込んで来たのである。横浜における目撃者の話からその一端を見てみよう。
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   『9月1日に起きた大震災に続く大火災をかろうじて免れた私は、何らかの方法でこの悲惨極まる状況を知らせなければと焦ったが、建物の大崩壊に続く猛火には成すすべもなく、翌2日になるまで食べる物もなくあちこちを彷徨した。
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   交通機関は全滅であり、徒歩すら危険極まりない状況だった。
   なぜなら不逞鮮人約2千人が市中を横行し、略奪は元より婦女子の2、30人を拉致しては、白昼の公道で強姦する非人道的光景が広がっていたからである。
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   これに対し官憲の警備は東京市とは異なり、軍隊の出動もなく、行き届かぬことはなはだしかった。そしてついには監獄囚人全部を解放し、看守の指揮により彼らに鮮人の掃討をさせたので大戦闘となり、朝鮮人百余名を斃したが、警備隊にも十余人の負傷者が出たようだった。このような有様の中、食料はおろか水もなく、救援は皆無で、生き残った市民のほとんどは天を仰いで餓死するのを待つばかりであった。』
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          大日本石鹸社専務・細田勝一郎・談『河北新報』大正12年9月5日
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   「事務長は、”陸上は危険なので、上陸できません”と言う。
   それでなぜかと聞けば、”鮮人が暴動を起こしており、昨夜から市内各所へ出没しては強盗、殺人、強姦等をしている”という。ことに裁判所付近はもっとも危険で、朝鮮人は小路に隠れてピストルで通行人を狙撃しているという。もしそれを疑われるなら、現場を実際に見た巡査を紹介しましょうと言う。
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          「横浜地方裁判所震災略記」 ハリー丸船内、部長判事・長岡熊雄
          「関東大震災 鮮人虐殺の真相」より

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戒厳令
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   こうした情況の中、政府は日本国民を守るためにようやく「戒厳令」を敷いた。
   戒厳令下では不穏な動きをする者は厳しく捕らえられるのは当然である。後藤新平は不逞鮮人襲撃のニュースをあえて掲載することを止め、彼らの暴動が後の昭和天皇に向けられることがないようにしたのである。台湾総督府で民生長官であった後藤新平は内務大臣となり、未だ終わることのない鮮人暴動を沈静化させる意味で、鮮人襲撃に関する情報が新聞に掲載されるのを中止させたのであった。
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   つまり鮮人による暴動を新聞が書き立てるから、日本人自警団の鮮人に対する報復が苛烈になると考えたのだ。それにより、鮮人の背後にいる社会主義者たちの暴動が摂政宮(後の昭和天皇)に向かうことを怖れたのである。
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   実際にそれ以後、新聞からは「鮮人襲撃」の類いの記事は抑えられ、逆に日本人に向けても「鮮人いい人」キャンペーンが始まったという。こうした現実にあった鮮人襲撃事実を報道せず、事態を沈静化させたというやり方そのものは、その当時としては仕方がなかったかもしれないが、それにより、鮮人が起こした凄まじい暴動という確固とした事実が消えてしまうことになった。
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   それにより一番混乱させられたのは、日本人の自警団である。
   これまで自分の家族や地域の人々、日本を守ろうと決起して立ち上がったのに、政府から梯子を外されてしまったからである。だが、以後このような政府のやり方は日本の歴史の随所に登場することになる。
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    それが我が国の国民性なのかもしれないが、時間が経つにつれてその時代を記憶している人々も亡くなってしまう。だが、新聞記事などの資料にはそうした歴史的な事実が残されてはいるが、それをどのように後世の人々に知らせるべきか、あるいは人々に記憶されているかどうかということに、もっと注意を払う必要がありはしないか?
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   つまり、事実として残されてはいても、それに関して事実とは違うことが書かれてしまえば、その時代の実際の真実は浮かび上がるはずがないからでらある。

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   朝鮮人が大挙して襲来し、強盗、殺人、強姦、放火などの暴動を起こしたその事実が、こうして人々の記憶から消え失せようとしていた。このような事実が長い間「流言飛語」だとされてきて、日本人が鮮人を虐殺したとする話が実際の事実と巧妙にすり替えられ、逆に「鮮人は襲来などしておらず、暴動など起こさなかった」という話が、さも歴史的事実であるかのように、教科書などを通して人々の意識に刷り込まれていったのである。
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   政府が「戒厳令」を敷かねばならなかったという事態であることに、もっと注視する必要がある。戒厳令が敷かれた状態で暴動が起きれば、当然、外国人、日本人に関わらず鎮圧され、抑圧されるのは当たり前である。対立、抵抗から死者が出るのは当然であり、それが「鮮人虐殺」という一方的な流言飛語がつくり出された背景である。
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   関東大震災時に、こうした鮮人による暴動、放火はデマだと捏造したのは、社会主義、共産主義者の学者たちの意図的な謀略である。SAPIOの連載によると鮮人という社会主義者、共産主義者たちが結託し、クーデターを起こそうと準備していたのだ。そこに関東大震災が起き、混乱に乗じて鮮人が暴動、殺人、強姦、放火、土地収奪などの残虐非道を行なった。
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   特に横浜方面から品川にかけてのエリアで鮮人の襲撃が酷く、それはもの凄い数の鮮人だったという。東京深川や墨田などのエリアでも盛んに火の手が上がり、起きるはずのないエリアで爆発や火災が発生した。その情報を受けて警察は、丸の内に外国の要人がいたことから鮮人の暴動に備えて厳戒体制を整えた。
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   一方、朝鮮人の暴動に怒り狂った日本人の自警団は、鮮人を捕らえては自衛から殺害した。その中には無実の鮮人もおり、間違えられた日本人もいた。そして戦後、共産党が主導して、その時に殺された鮮人の人数を6千人と捏造した。暴動は共産主義者と鮮人が結託したテロ行為であったが、この事実が明らかになるのを隠すために、吉野作造という学者が嘘を捏造した。彼は日本の共産主義の土台を作った1人でもあった。
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   だがその共産主義の学者でさえが、実際には鮮人の暴動破壊工作が事実であったことを大筋では認めている。つまり、これは隠蔽工作なのである。鮮人の暴動の事実を立証する証言は多数存在するので、隠すことは到底できない。
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   後藤新平が自警団による自衛行為をやめさせて、収集をはかるため報道規制をしたが、読売の正力松太郎(かつての警視総監)は後藤大臣の決定に怒り、「それでは共産党(アカ)と鮮人から市民の安全を保障できない」と反発し、自身は9月末に地方への転勤願いを出した。実は後藤新平は社会主義者と交友があり、知己を持っていた。つまり彼は左翼右翼の両刀使いだったのだ。こうした一連の暴動をきっかけに、政府は政策を見直し、治安維持法を制定し、以後社会主義、共産主義者への弾圧を行ない、遂行した。
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   これが、鮮人の暴動から日本人が自衛のために戦ったという歴史の真実である。
   現在においても慰安婦問題、高校無償化、教科書への干渉など、韓国朝鮮人の抗議や政治的活動、プロパガンダなどを見ると、彼らはまったく変わってはいない。特にありもしない慰安婦問題の継続は、それがカネをふんだくるいいカモとなっている。
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   普通に考えるならば、隣人が困っていればどのような場合でも助け合うというのが当然のことである。当時は横浜中華街もあり、中国人もいたのだが、なぜ朝鮮人だけがそのようなことをしたのか?
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   彼ら鮮人は以前と全く変わってはいない。
   現在の在日朝鮮人の行動を見るならば、誰でもその中に、当時の朝鮮人の様子がもっとも鮮やかに浮かび上がって見えてくるはずだ。

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    youtube「我らが日本応援隊」から引用・掲載させていただきました。
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