すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも 報いられで 
   十字架の上に あげられつつ 敵をゆるしし 

この人を見よ!

 

 

 

 

 

 

人物概要

ファミリーができあがり始めた当時のマンソンは、さまざまな犯罪行為のために矯正施設でそれまでの人生の半分を過ごした。殺人を犯す前の時期の彼はミュージシャンを志しており、ザ・ビーチ・ボーイズデニス・ウィルソンとは人を介してつながりがあった。マンソンによって書かれ演奏された曲が数曲レコーディングされており、ガンズ・アンド・ローゼズマリリン・マンソンを含む歌手たちが、数十年にわたって彼の歌をカバーしている。マリリン・マンソンのリードボーカリスト、ブライアン・ヒュー・ワーナーは、「マンソン」の名を「悪の象徴」として使用している。

マンソンの支持者らは、1969年の7月と8月に、4か所で9件の殺人を犯した。殺人の動機についてマンソンは異議を唱えたが、ロサンゼルス郡検察はマンソンが人種間戦争の勃発を企図したと結論づけた[4]。1971年に、第1級殺人罪と映画女優シャロン・テートを含む7人に対する殺人の共謀罪で有罪判決を受けた。検察の主張によると、マンソンは直接には殺人を指示しなかったが、マンソンの主義主張は共謀の明白な行為を構成するとされた[5]

カリフォルニア州の最高裁判所にて、1972年にマンソンに対する死刑が決定したが、死刑制度が一時的に廃止されたことで、マンソンは自動的に終身刑に減刑された[6]。カリフォルニア州では、最高刑として死刑が復活したが、コーコラン刑務所英語版)に服役中のマンソンには何ら影響を及ぼすことはなかった。

生涯

オハイオ州シンシナティでキャスリーン・マドックスとカール・スコットの間に生まれる。5歳の頃に母親とその兄(マンソンの伯父に当たる人物)がガソリンスタンドを襲撃したことによって逮捕され、懲役5年の実刑判決を言い渡されたため、祖父母の家に引き取られて育てられた。しかし、その後、親戚を転々とし、最終的に12歳で孤児院に入れられた。犯罪を繰り返しては施設を出入りした。16歳で救護院に、表面的には模範収容者として振舞いつつも他の収容者に重傷を負わせ少年院に送られた。1954年に19歳で仮釈放されウエイトレスと結婚し子供が生まれたが、自動車泥棒で逮捕され別れた。刑務所ではセラピーを受け、人を操る才能に磨きをかけ、元ギャングのアルヴィン・カーピスからギターを習った。刑期を終えたマンソンが出獄したのは1967年3月21日で、小銭とギターだけを持ってバスでサンフランシスコに向かった。

ヒッピー・コミューンからカルト指導者へ

1960年代後半のサンフランシスコは、ヒッピー文化に浮かれていた。町には長髪の若い男女があふれていた。若者たちはベトナム戦争への徴兵を忌避することに熱をあげ、ハイト・アシュベリー地区では、LSDコカインを楽しむヒッピー文化が盛んだった。マンソンは街角で歌いながら、図書館司書のメアリー・ブルンナーと知り合い彼女のアパートで同居するようになる。言葉巧みに若い女たちに同情して、ドラッグも与えて心を掴みアパートへ連れていき同居した。1968年にロサンゼルスのハリウッドに数十人のメンバーと移り、ドラッグ売買、物乞い、クレジットカード泥棒で生計を立てながら言いなりになった女を使って男もメンバーに加えた。

ロック・バンドザ・ビーチ・ボーイズのメンバーデニス・ウィルソンは、ヒッチハイク中のファミリーの少女を乗せた縁でマンソンを紹介された。親しくなったファミリーは彼の屋敷に居候することとなる。紹介されたミュージシャンでプロデューサーのテリー・メルチャーのプロデュースによってマンソンはシンガー・ソングライターとしてデビューする予定だったが、結局テリーが約束を守らずにマンソンのデビューの夢は流れた。

1968年5月、ウィルソンが転居したため彼の屋敷から出たマンソンの一行はカリフォルニア州チャッツワースにある西部映画撮影用のスパーン牧場を知り、この地のオーナーである盲目の老人、ジョージ・スパーンから馬の世話と日々の雑用をするかわりにファミリーが移り住むことを認めさせた。ここでは量販店から廃棄食料を調達し、たいていの時間はドラッグで陶酔するかセックスをして過ごしていた。

最終戦争「ヘルタースケルター」

マンソンはサイエントロジーの分派「最後の審判プロセス教会」(Process Church of the Final Judgment)を拠り所としていた[7]。「最後の審判プロセス教会」はアドルフ・ヒトラーを崇拝し、最後の審判において自分たちが選民として役割を果たすと信じていた。マンソンはエリック・バーン交流分析や、火星人の教育を受けた主人公が新宗教を開くが地球人に殺されるという筋のハインラインによるSF小説『異星の客』に影響を受けた[7]

マンソンはカルマ思想やヒンドゥー教左道タントラに訴え、「死は変化に過ぎない」「魂や霊は死ねない」「善も悪も存在しない」と語った[7]。マンソンはブラックムスリムブラックパンサー党などの黒人たちが蜂起して白人に戦争を仕掛け、白人を全滅させて世界を支配するという最終戦争を確信していた[7]。この人種戦争が勃発するその日のことを、マンソンは「ヘルタースケルター」(ヘルター・スケルター)と呼んだ。マンソンはビートルズの『ホワイト・アルバム』の曲にハルマゲドンによる革命と救世主マンソンが表されていると解釈した[7]。マンソンは、カリフォルニア州中部のデスヴァレーに巨大な地下世界につながる穴があり、この穴の中でファミリーたちは終末戦争の間暮らすのだという幻想に取り憑かれていた。ファミリーにヘルター・スケルターへの備えを呼びかけた。戦争があると思うと、ファミリーたちは興奮して、武器や車両を蓄えて、射撃訓練にも励んだ。ついにはマンソンが殺せと言えば人殺しも辞さない殺人集団へと変貌していくことになる。マンソンのコミューンは金銭問題や信者らの緊張関係、警察からの外的な圧力によってマンソンの妄想が過激化していった[7]

連続殺人事件

1969年7月、自宅に2万ドルの遺産を隠しているという噂があったゲイリー・ヒンマンという麻薬の売人で音楽教師の下をマンソン・ファミリーのメンバーであるボビー・ボーソレイユ、スーザン・アトキンズ、メアリー・ブルンナーの3人と訪れた。金が見つからなかったためボーソレイユはマンソンの命令で、ヒンマンをナイフで刺殺し、ヒンマンの血で壁に「政治豚」(Political Pig)と書きなぐり、黒人解放組織ブラックパンサー党の仕業に仕立て上げた。黒人の隠語でPig ピッグ(豚)は「白人」を意味した[8]。マンソンは黒人の隠語を書いて黒人の仕業であると偽装することでこの事件から人種戦争が始まると確信していた[8]

まもなくボーソレイユが車両窃盗、メアリー・ブルンナーもクレジットカードの不正利用で逮捕された。これに危機感を持ったマンソンは数件の残忍な殺人事件を計画し、ファミリーのメンバーであるテックス・ワトソン、スーザン・アトキンズ、パトリシア・クレンウィンケル、リンダ・キャサビアンに実行を命じた。これがマンソンを象徴する有名なテート・ラビアンカ殺人事件である。1969年8月9日、ロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8か月だった女優のシャロン・テートと、元婚約者で世界的なヘア・スタイリストのジェイ・セブリング、夫ポランスキーの親友ヴォイテック・フライコウスキー、その恋人でコーヒー財閥の相続人アビゲイル・フォルジャーが自宅で惨殺され、数日後、同じ手口でスーパーマーケットチェーンのオーナーだったラビアンカ夫妻が殺された。

逮捕

この事件から1週間も経たぬうち、警察が車両窃盗の疑いでスパーン牧場に家宅捜索を行って、マンソンは他のメンバーたちと共に逮捕された。ただしこの時点で警察は、マンソン・ファミリーを殺人事件の容疑者だとは見なしていなかった。しかも、証拠不十分で全員釈放となっている。

捜査が急展開を迎えたのは、10月になってからだった。ヒンマン殺しのボーソレイユの恋人であるキティ・ルートシンガーが逮捕され、自分の無実を証明するためにファミリーの悪行を白状した。そして、別の軽犯罪で逮捕されていたスーザン・アトキンズが、テート・ラビアンカ事件の真犯人は自分だと同房囚に自慢した。この同房囚が看守に密告して、そこから芋づる式に実行犯やマンソンの逮捕に繋がった。

マンソンは、取り調べや裁判では殺人を指示したことを認めず、自分に心酔したメンバーが勝手に暴発しただけだと主張した。ともに裁判を受けた3人の女性信者も従ったが、事件に罪悪感を感じていたリンダ・キャサビアンは、検察側証人として証言しマンソンを激怒させた。公判中は検察や証人、世間を嘲弄しマスコミから注目を浴びた。

マンソンは自ら殺害を実行することはなく、テート・ラビアンカ殺害事件に関しても実行犯は3人の女性信者で全員が終身刑となり、マンソン自身にも1971年4月19日に死刑判決が下された。しかし続く1972年2月にカリフォルニア州では死刑制度が一時的に廃止されたため、これは自動的に終身刑に減刑された。後年同州の死刑制度は復活したが、マンソンには影響が及ばず、カリフォルニア州刑務所で服役していた。

獄中では、最後まで罪を認めず反省や後悔、謝罪はなかったが、悪のカリスマとしてファンレターが大量に届き作詞、作曲に励んだ。1981年、獄中のマンソンは事件後初のテレビインタビューに応じ、たびたびマスコミから取材を受けた。

服役中にたびたび仮釈放申請が出され、そのたびにマスコミの関心を集めている。2007年の仮釈放に向けて通算11回目の申請を行ったが、「依然として他者に理不尽な危険を及ぼしており、接触する人間に危害を加える恐れがある」として却下された。また、2012年には通算12回目の仮釈放の申請を行ったが却下されている。

2014年11月、9年前からマンソンと交流を続けてきた26歳の女性が、自分はチャールズ・マンソンの妻だとCNNのインタビューに答えており、獄中結婚の手続きに入ったことが報じられた[9]が、女性がマンソンの遺体をガラス張りのショーケースに納めてロサンゼルスで陳列し、大儲けしようと企んでいたことが発覚し、婚約は解消された[10]

晩年

2017年1月1日、胃腸出血のため、カリフォルニア州の刑務所からベーカーズフィールドのマーシー病院に緊急入院した。ある情報筋は、ロサンゼルス・タイムズにマンソンは重病であると語った[11]。彼は1月6日までに刑務所に戻った。彼が受けた治療の内容は開示されなかった[12]。2017年11月19日にカリフォルニア州ベーカーズフィールドの病院にて急性心筋梗塞で死去[13]。83歳没。

 

 

 

こいつ『殺人鬼』も、

救われた!

 

 

 

 

 

【万人救済!!!!】

 

 

 

 

 

主イエス様は、

イスカリオテ・ユダも、

ポンテオ・ピラトも、

ヘロデ大王も、

 

 

 

全て、全て、全てを、

救いたい!

 

 

 

どんな人でさえ、

アイツも、こいつも、そいつも、

 

 

 

全て、全て、全てを、

救い出したい!

 

 

 

その象徴が、十字架!

 

 

 

十字架上で、

高く上げられ、あざけられ、

蔑まれ、槍を刺され、

死んで逝った!

 

 

 

そのは、

『私の罪の身代わりとしての、

死だ!

主イエス様が、

私の変わりに、命を捨て、

贖われ代価を支払われ、

無罪放免(大恩赦)となった!

 

 

 

本当は、私が、

自らの罪の、

代価を支払い【永久の死】で、

滅ぶはずだった…、 

が…。

 

 

 

主イエス様は、

私の変わりに、

身代わりの死を遂げた!

 

 

 

そこに、

主イエス様の、

無限の『愛』がある!

 

 

 

愛の人『主イエス様』からの、

誠の、

葡萄の木から~、

~~~離れない~~~

 

 

 

(ローマ・カトリック教会・

塩町教会)

で、

生きて行きます!