クローバー昭和41年2月、受験のため九州の片田舎から上京し、当時大田区の安アパートに1人暮らしをしていた長姉の6畳一間の部屋に約1ヶ月間居候していた時分に、小さな小さな乾電池入りのラジオから毎日のように流れて聴いたのが、この「ウイ・キャン・ワーク・イト・アウト」です。日本語にどう訳せばいいか分かりませんが、日本版では「恋を抱きしめよう」って分けのわからないタイトルがつけられていたようです(笑)。
クローバーこの曲は前年の1965年12月にシングルとして英国で発売されましたので、翌年日本でもラジオから流れました。ただ、両A面で片方の「デイ・トリッパー」のほうがヒットしましたので、こちらはそれほどヒットしたわけではありません。しかし、ぼくにはこの曲のほうが耳にずっと残っていました。きれいなメロディラインに軽やかなリズムとタンバリンの小気味よい音が心を軽やかにします。
クローバーなぜ、この曲がずっと思い出に残っているかというと、当時、姉はぼくの受験にいい顔をしてませんでした。九州から彼氏を追いかけて上京し、働きながら趣味の社交ダンス教室に通い(姉は身長が低いので趣味にしてましたが、背が高ければプロの社交ダンサーになりたかったと言ってました)、かつかつの生活をしていたのに、弟が押しかけ、食事の世話やらなんやら面倒をみないといけないので、姉には苦痛だったようです。それに、もう一つ、後になってわかったのですが、なぜ姉が僕の受験にいい顔をしなかったかというと、姉は東京の短大に進学したくて書類も出して合格していたのに母親から反対され、結局進学を断念し、就職を余儀なくされていたからです。姉にしてみれば、自分には反対したのに、長男は甘やかして受験させる――どうにも、我慢がならなかったようで、その怒りの矛先がぼくに向けられ、なにかときつい言葉を投げつけられました。18の少年は布団の中で母親が恋しくて涙したものです。
クローバー幸い、受験した3校のうち2校に合格し、第2志望の大学に進学しましたが、後に失恋した姉は浅草にある花屋さんと見合い結婚しました。しかし、貧乏花屋でお金がなく、しかも姑との確執があり、姉はいつもぴりぴりしていました。電話するのも気がひけました。
クローバーしかし、男の子を2人もうけ、姉も芯が強くなると、だんだんぼくにも心を開き、鎌倉にもたびたび遊びに来て数時間を過ごし、魚屋で鎌倉の新鮮な魚を買って帰ったり、たまに電話してきて「元気?」と様子を伺ったり、嫁さんの心配をしたりとあれこれ気遣ってくれました。気持ちにゆとりができてきたんでしょう。
クローバーしかし、その姉も、平成11年1月のある日、健康管理のため定期的に通っていた銀座のスイミング教室で急に背中に痛みを覚え、救急車で日大駿河台病院に運ばれ、緊急手術を受けましたが、担当医から、もう輸血しても意識が回復する見込みがないと宣告され、家族の同意のもと輸血を止め、延命治療を中止しました。生暖かい手がみるみるうちに冷たくなっていきました。まだ肌色だった顔も急激に青白くなり、死体に変わりました。死因は大動脈溜解離。確か加藤茶さんもこの病気で生死の境をさまよったように記憶しています。享年61。若かったですね。小さい孫が二人居てかわいがっていたのに、成長する姿を見れずに旅立ちました。通夜の晩、義理の兄が涙ながらに「早く死なせて申し訳ない」と何度も頭を下げて謝りました。しかし、兄を責めるわけにもいきません。ただ、分骨だけはさせていただき、わずかの骨をもらい受け、田舎の墓地に納骨しました。姉が大好きだった父親の骨壷の隣に。
クローバー亡くなる10日くらい前でしたか、久しぶりに姉が電話してきたんですが、「元気? お金に困ってるなら貸してあげるわよ」って珍しくお金の心配までしてくれたんですが、ぼくも遠慮して「うん、なんとかなるよ」と答えたら、そのとき、やけにあっさり「そう、ならいいわ」と言って電話を切ったのが妙に心の奥底に残りました。いつもなら、なんやかやと世話を焼き、10分くらいは話す姉でしたが、そのときばかりはやけに淡白で、すっと電話を切ってしまったからです。後で、あれは最期の別れの言葉だったかもしれないと思い返したものでした。父が亡くなる前も、妙な予感がありましたが、姉のときも似た思いを体験しました。
クローバー母がその昔、姉の進学に反対したのは、女には学問は必要ないという既成概念があったせいで、母はそのことを後悔してました。「かわいそうなことをした」と。姉は家にお金がないとわかっていたので、親には一銭の負担もかけず、全部自分でまかなうつもりでいました。それでも反対されたので、ずっと怨念みたいに残っていたようですが、自分が家庭をもち、子どもを産み、育ててみて親の苦労がわかったらしく、後に打ち解けたようです。姉二人は戦争前の生まれ、ぼくは戦後、父が戦地から復員してから生まれたので、そうとう年齢に開きがあり、そういう経緯を知ったのは、ずいぶん後になってからでした。
クローバーもう、母も姉もこの世にいませんので、身内の恥ずかしい話をビートルズの思い出深い曲に絡ませて開陳したしだいです。




ザ・ビートルズ「WE CAN WORK IT OUT」 





                  ペタしてね