$碧い宙の蒼い月
長州藩
生誕:天保4年6月26日(1833年8月11日)
死没:明治10年(1877年)5月26日
長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれる。 長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。幕末期には、桂小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」、「維新の十傑」として並び称せられる。
 神道無念流剣術の免許皆伝を得る剣豪の一人。近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたという逸話がある。
患っていた脳病が悪化、明治天皇の見舞いを受けた後朦朧状態の中、大久保の手を握り締めて「西郷もいいかげんにしないか」との言葉を発しこの世を去る。享年45。

安政5年10月に、小五郎さんが武市半平太さんや坂本龍馬さんと、桃井道場で行われた撃剣会に出て試合をしたと言われていますが、当時、武市さんも坂本さんも9月から土佐藩に帰ったままなので、実際には武市さん、龍馬さんとも手合わせはしていません。
 ※私の小説ではしたことになっています、すみませんw

 よく間違われて記載されていますが、小五郎さんは吉田松陰先生の弟子でも松下村塾の門下生でもございません。これについては品川弥二郎くんも証言しております。ただ、明倫館に於いて兵学を松陰先生から学んだというだけにございます。
 ただし、その後小五郎さんと松陰先生の付き合いは続きます。手間のかかる松陰先生の面倒を見ていた形になるのですが(;´▽`A 面倒見が良いのは、維新後の小五郎さんを見てもわかることです。恩がある人の息子だと弟子だからと、自宅に住まわせたりして・・・自分のポケットマネーですから、生活は質素だったようですw

 メンタルな部分に弱いところのある小五郎さんは、維新後、精神的に追い詰められていきます。
 大久保さんや岩倉さんとともに外遊に出て帰国した後の政局は、西郷さんが担ぎ上げられ、
 岩倉具視を正使、大久保利通(一蔵)さん、木戸孝允(桂小五郎)さん・伊藤(俊輔)博文くんらを副使とする岩倉使節団が欧米を外遊します。
 岩倉さんたちが「自分達が戻るまで人事には一切手をだすな」と指示を残したにもかかわらず、西郷隆盛さん、井上馨さん、大隈重信さん、板垣退助さん、江藤新平さんらによって人事が大幅に変更となり、特に江藤さんによる改革が推進められていきました。
 ※長くなるのでここらへんで・・・

 そんな小五郎さんは「癸丑以来・・・云々」とよく口にしたそうです。
 癸丑以来という言葉は王政復古の大号令の中にも見えます。
【徳川内府、従前御委任の大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然聞こしめされ候。抑癸丑以来未曾有の国難、先帝頻年宸襟を悩ませられ御次第、衆庶の知る所に候。之に依り叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候間、自今、摂関幕府等廃絶、即今まず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、万機行なわせらるべく、諸事神武創業の始にもとづき、縉紳武弁堂上地下の別無く、至当の公議を竭し、天下と休戚を同じく遊ばさるべき叡慮に付き、おのおの勉励、旧来驕懦の汚習を洗い、尽忠報国の誠を以て奉公致すべく候事】
 ※癸丑とは、ペリー来航による黒船騒動のあった嘉永6年が十干・十二支の癸丑(みずのとうし)だった事に由来する。

 動乱の時代、先駆けの一人として生きて来た小五郎さんや大久保さんにとって、王政復古ごの新政府に他藩の人間があたかも「俺達が維新を成した」ような顔で政に関わって来るのは、本当に腹正しいことだったと思います。(帰ってきた大久保さんすねちゃったしね!)

 死の間際の一言 西郷もう大抵にせんか を辞世の句と紹介している事もありますが、私的にはただのうわ言に思えます。大久保さんと同じく、西南戦争に担ぎ出された西郷さんの身を案じたのでしょう。

辞世の句 大君の 春ならぬ世と知りぬらん 花もことしは去年にかはれる