ベッキオ橋を渡って、ピッティ宮殿を訪ねる。フィレンツェの豪商ピッティが作ったこの宮殿はその後、メディチ家が買い取り増築や改築が繰り返され、フィレンツェがイタリア王国の首都だった時代には、ここに国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世が住んだ。宮殿は壮麗で規模の大きさは恐るべし。まるでヴェルサイユ宮殿の様。現在、宮殿はパラティーナ美術館をはじめとする7つの美術館と広大なボーボリ公園となっている。実は今回、初めての訪問でピッティ宮の規模が読めずチケットも、全ての美術館と公園を購入したのに時間と体力限界で、パラティーノ美術館の一部のみしか見学できなかったのは残念。

 

 

 

ピッティ宮よりボーボリ公園を望む。本当は、広大な公園だったがこの写真でガマン😣

 

「サトゥルヌスの間」には、ラファエロの作品7点が展示されている。

大公の聖母(1506年)

 

小椅子の聖母(1516年)

 

布張り窓の聖母子(1514年)

 

気になった絵画

「サント・マリー・マドレーヌ)

Domenichino (Domenico Zampiere)作

ドメニキーノ(ドメニコ・ザンピエ―リ)1581年-1641年

実は、このピッティ宮で駆け足だったけど目立たない場所の隅にこの上目遣いの絵を見たときに、nyasaper城に伝わる彫刻にクリソツだった。この彫刻のいわれは、nyasperの親父が60年以上前に、ヨーロッパの骨董屋に通い手に入れたものだった。親父は、ベルニーニ作の彫刻で泥棒あたりが首だけ教会から切って持ち出し、売られたものだよということだったが、まあホラ吹き親父のいうこと、そんなことはあるはずもないが。でも何となく「マグダラのマリア」的な顔立ちの像を、nyasperは彫刻を幼少の時から「首」と呼び大きくなった。イタリアから帰ってきて色々調べ、この作家の事を知ったがなかなか謎の多い興味深い人物だった。nyasper城を畳んでしまった今、この「首」は、叔父の家に預けてある。これを機にあの不気味な「首」を思い出した。