こんにちは!

 

着付け歴28年、着付け講師歴8年

葵桜®︎きもの着付け教室 代表 松嵜まゆみですsakura03

 

葵桜®は、心に花咲く®おけいこ教室として、

幸せな女性の生き方をトータルでサポートする着付け教室として、

着物×コーチング×ビジネスで、

「技術」はもちろんのこと、「在り方」や「活かし方」をお伝えすることで、

心に花咲くお手伝いをしています。


こちらでは、レッスンの様子やプライベートなど、講師の日常を綴っています。 

 

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昨日、素敵な着付け講師の先生からお声をかけていたただき、

日付変わるまで、三人で3時間半ズームしてました。

 

三人で密な話したかや三密やねんて(笑)

 

 

同業なので、顔見知りではありますが、

個人的に話すのはほぼ初めて。

 

 

始まって早々に、会社員時代のことを聞かれ話してたら、

 

大阪のみんなのアイドルのようなカリスマ的な先生から、

(名前出してええんかな?て感じなので伏せときますが)

 

 

「なんで、それブログとかに書かないのですかー?それみんな知りたいー」と言ってくれたので、

 

早速、私の会社でのエピソード書きます←素直笑

 


これは、ビジネスコンサルを受けてくれた人とかにも必ず聞かれることで(昨日も一昨日も聞かれた)、

聞かれたら話しているから、聞き飽きてる人もいるかもしれんけど

 

 

一番多いのが、パソコンとかビジネスの知識はどこかで学んだんですか?

という質問。

 

 

答えは、会社です。

 

私は高卒で会社に入っているので、

全然使えない10代そこそこの小娘を育てていただいたという思いが強いです。

 

だから、私の最終学歴は京セラだと思ってます。

 

 

高校でも情報処理科にいたので多少知識はありましたが、時代の流れが早すぎて、

学んだことは呼吸しているそばから古い情報へと変わっていく時代でした。

 

 

ちなみに、なんで大学行かなかったかというと、

バブルが弾けたあとで、「大企業に入るなら今やな」と思ったからです。

(実際、翌年から採用が激減で、最後のバブル社員と呼ばれてた)

 

 

その時、高3の私に与えられた選択肢は、

進学なら立命館大学。(部活での推薦なので、ずっと卓球続けないといけないパターン)

就職なら京セラ本社か富士通京都営業所。

 

 

最初、富士通で希望を出した私に、

「あなたは本社タイプだから京セラに行ってブイブイ言わせてきなさい」

と私の担当ではない進路指導の先生に背中を押され、直前に変更しました。

(めっちゃわがまま言うて迷惑かけたけど、遠慮がちで人に道を譲り続けた私の唯一のわがままかも?)。

 

 

もともと京セラを候補に上げたのは、

叔父が稲盛会長と経済連で一緒にツートップを努めていたので、

いつも「稲盛くん(笑)」のことを語ってたから、

幼き頃からの刷り込みで、この会社に興味があったと思います。

 

 

思えば、叔父にしろ祖父にしろ、先見の目のある人で、

私の商いに対する興味はこの頃から強かったと思う。

 

 

京セラは、厳しい会社だという噂もありますが(実際厳しい)、

人情味あふれる上司のお陰で、とても楽しく会社員生活を過ごしてました。

 

 

今でも時々飲みに行くし、

私の投稿を見ては、上司や先輩たちが喜んびの感想をもらうのが、

ちょっとした心の支えであり、恩返しとも感じています。

 

 

私が入社したのは1993年。

 

本社の経営管理部というところに配属されました。

 

まだ、パーソナル(一人一台)コンピュータではないどころか、

Windowsも存在してませんでした。

 

入社2年目くらいに使っていたコンピューターも、

MS-dosというコンピューターで、

 

今みたいに複数画面開けないし、

視覚的にわかるような便利なものではなく、

マウスもない。

 

大昔のこと過ぎて、

記憶は定かではありませんが、

言語を知らないと、ファイルを開くこともできなかったよね。

ファイルマネージャー(今はない?)とか

エクスプローラーとかできたとき感動した。

 

 

それを思うと、今の時代は革命的にすごいん

ですよー!!

 

入社当初は、端末と呼ばれるネットワークにつながってないパソコンで入力し、

それをレコードみたいなのに書き込んで、

ホストコンピューターで読み込んで、

全社で一括してデーター処理を行います。

 

これでも多分、世の会社に比べたら進んでた方だと思います。

(15年後、問屋さんにシステム化のお手伝いで入ったら、

その頃と変わらん状態でしたし)

 

 

そして、そのホストコンピューターを処理するのは、

私たちの部署では花形と言われてた職業(オペレーターと呼ばれてた)。

 

 

私達は、たいてい、キーパンチャーとして入社して、

認めてもらえた人だけ次のステップに上がれます。

 

それまではひたすら伝票を入力して、

人が入力したものをチェックして、

もし、チェック漏れがあったら、泣くまでどやされます(笑)

 

入力ミスをしても怒られないけど、自分が引き起こしたミスで人が怒られるのは申し訳なさすぎるので、入力ミスをしなかったです。

 

そして、私は、運と勘で生きてることもあり、

人のミスを見逃すこともほとんどなくて、

この間も「内ちゃんは一回もなかしたことないな」って上司(Mさん)が言うてました。

 

 

 

私は先輩を押しのけて、最速でホストコンピュータのオペレーターに(電話対応ではないよ)。

 

 

 

しかも、当時、社内で、全社エントリー大会というのがあって、

キーボード入力の速さと正確さを競う大会がありました。

 

 

私はその大会で、入社2年目から会社辞めるまで全社で一位という記録を残し続けたのですが、

(というか、私が退職した翌年にその大会がなくなっていたから、

「未来永劫ディフェンディングチャンピオンやで」とこの間教えてもらった)

 

これは私が唯一残した軌跡かなと思ってます。

 

 

そして、営業マンのように、ノルマで評価されない代わりに、私の部署ではこれが評価となっていて、

高卒なのに、同期に比べるとボーナスがめっちゃよかった❣

 

 

そのような実績を入社2年目に残したので、三年目でオペレーターに抜擢されます。

 

 

ですが、オペレーターは数字やアルファベットが画面上に下から上に流れていくのを見ながら、誤字をチェックずるという、

テレビゲームのようなスリル満点な仕事で、

 

 

私は斜視なので、右下がりに見えるので文字がずれたりするため(オペレーターの画面を知ってて斜視の人にしかわからん話笑)、

テレビゲームもほとんどできない私にはつらすぎて。

 

 

見落としたら、売上何千万落とすってことにもなりかねないし、

迷惑かけるのが怖くて、泣く泣く(というか、泣きながら)退職を申し出たら、

 

 

隣の部署の上司(Yさん)から、「新たな部署を作るから、そこに」と声がかかり、

「経営企画部」という部署に配属となりました。

 

 

もともとアイデアマンの称号をいただいていたので、適任とは言ってもらえましたが、

 

それはもうみなさん、有能揃いで…

 

最初はめっちゃ肩身狭い思いでした。

 

 

任されたこと(オペレーター)を挫折したって自分に☓つけてたというのもあるし、

 

他の女子社員からのひがみもあったし、

自分でも「企画部で私ができることなんて…」て思ってたし、

精神的にはしんどかった。

 

 

でも、そこで私のお世話係になった上司(Fさん)がめっちゃ面倒見が良くて

(私以外にはつっけんどんで冷たくて怖い人)

 

いつもかばってくれて、

ミスは責任取ってくれる上に、 

自分の手柄も私の手柄にしてくれるような人で、

ホンマに救われた。

 

 

そんな、恵まれた環境のお陰で、なんとかそこでの居場所を見つけました。

 

ちなみに、自分用のパーソナルコンピューターを持たせたもらったのも、

女子社員の中では一番のりでした。

「目に負担がかからないように」ってめっちゃ大きなノートパソコン持たされてた(愛を感じた)

 

 

さらに、当時、管理部門の高卒女子の社員には、残業規制が厳しくて、

22時までに退社しないといけなかったのですが、

 

私ともう一人の先輩(Aさん)だけその規約から免除され、大卒と同じようにバリバリ働けるようになります。

(それは嬉しくない部分もあるけど名誉でもあったし、

なぜか、全国の責任者クラスが集まる会議に先輩Aさんと二人若手女子が混ざって参加してました)
 

 

とにかく、ものすごい期待を背負ってて、

女子社員で最初に役員になるであろう候補と言われてました←さっさと辞めたからなってない。

 

 

そこ(経営企画)では実際、どのような仕事をしたかというと、

 

 

・全社にパソコンを導入することになり、役員さん向けにパソコン講習会を開催

 

これが私が講師を目指したいと思ったきっかけ。

 

 

・全社でネットワークを張り巡らせることになり、それに伴いウイルスソフトを導入することになり、

製品の選定から全社への導入支援を一人でさせてもらった。

 

知識のない私の選定基準は、担当者の対応が良かったという理由だけでしたが、

前出の私をかばってくれる上司Fさんが、

「内ちゃんがそう感じたなら大丈夫」と押し通してくれた。

 

 

・社内の受注生産システムのプログラミング。

 

このプログラミングはホンマに苦手で、全然思うように出来なくて、

お給料をもらっていたことが申し訳なくて仕方なかった・・・・

(退職したいと思ったきっかけ)

 

 

・社内の案内文をサクサク作ってた。

 

これはめっちゃ得意で、

新たなシステムの導入の案内とか、

新たな規律とかを作って、全社に配布してた。

文章書くのが得意だったので、目つぶっててもできる感じ。


 

・よその部署のややこしい偉いさん対応

 

「新しいことをやりますよ」といった時に、

必ず意見(文句)をくれる人が他部署に数名いたので、その人の対応。

 

私は入口の一番近くに背中を向けて座っていて、

その人たちが部署内に足を踏み入れたら上司「Mさん」から「内ちゃん出番」と言われ、

そのおじさんたちを説得します・笑

(内藤さんが言うんやったらしゃあないな・・・ってみんな引き下がる・笑)

 

・おじさん連中の憩いの場を提供

 

これは、仕事ではないけど、

仕事中に息抜きしたくなったおじさんが、

「がんばってるか?」って私の机の周りにきて、

私の机の引き出しから飴ちゃん取り出して、

おじさんたちが憩うという不思議な光景があった。

喫煙しない人の喫煙所代わりみたいな・・・

「そこに喫茶内藤って看板出したらええねん」って言われてた。

 

 

そりゃーもう、バリパリのオヤジキラーで、当時はおじさんにモテモテでした(笑)

部長とか副部長が順番に「お気に入りは内藤」と宣言して取り合って、

気持ち悪いことになってました。

 

平社員の名前を覚えることのない取締役にも、

「歌がうまい」ことで覚えられてた。

 

退職後も、カラオケで私の十八番を誰かが入れたら

「これはないちゃんの歌やから歌うな」と言って上司が消してたらしい(笑)

 

 

今でもその人たちとカラオケ行ったら、

ええ時間になった頃に私が十八番を歌うと、

お帰りの合図になってます(笑)

 

ちなみに私に「会社に入るなら天城越えを覚えたほうがいい」と教えてくれたのは、

10代の頃付き合ってた彼氏のお母さん。

いつも一緒にカラオケ行ってたなー。

 

 

そんなこんなで、

高卒という負い目もあったし、劣等感の塊だった私ですが、

 

人当たりと運の良さと勘の良さで

大きなチャンスをいただいての6年間。

 

 

これが、本社(山科)での思ひ出で・・・

 

 

この後、二回会社辞めて、

二回舞い戻ってます。

 

 

なぜ辞めたか?という理由と、

再び舞い戻ったときの話はまた別記事で書きます。

 

 

 

もしかしたら自慢のように取られるかもしれませんが、

嘘偽りはありません。

(先輩とか上司も読んでくれてるから嘘は書けない・笑)

 

 

 

 

 

着付けも人生も思いのままに

きものライフスタイルコーチ 松嵜まゆみ

 

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