前の夜、早く寝たせいか私は夜明けとともに目が覚めた。

悠真はまだ、ぐっすりと眠っている。

 

カーテンをちょっとだけ開けると、早朝の街が見えた。

静かで緑も多い住宅街で、清々しい。

 

大学までは、自転車で10分。

大事な息子を一人置いていくには十分な環境だ。

 

私は悠真の寝顔をそっと見た。

 

小学校の時、仲良しの友達が、昼休みサッカーをしていて校舎の窓ガラスを割ってしまった。一緒に遊んでいた悠真は、共に職員室へ。

 

友達が説教されている傍で、悠真も一緒に聞いていたのだが。友達は反省の色なし。

なのに隣にいた悠真が、泣きながら先生に謝ったと、先生から聞いた。

 

「僕がちゃんと注意していればよかった」と。

 

「は?」

と最初は訳が分からなかったが。

 

悠真はそういう子供だった。

 

初産で初めて悠真の顔を見たときの喜び

悠真が初めて寝返りをした時の喜び

悠真が初めて立った時の喜び

悠真が初めて一歩歩いたときの喜び

悠真が初めてお友達を自分で作って来た幼稚園

悠真が初めて主役になったお遊戯会

悠真が初めてランドセルを背負ったときの顔

悠真が初めて100m走で走る姿に涙が出たこと

悠真が初めて……

 

考えれば、私は悠真から喜びしかもらっていないと、今になって思う。苦しみや悲しみは一つももらっていないなと思う。

この社会にはいろんな人間関係が存在するが、相手に喜びしか与えない存在なんて、他にあるだろうか。

思い浮かばない。

どこのお子さんもそうなのだろうが、本当に子供ってすごい。

 

そんな我が子をこの右も左もわからない都会に、今日私は一人残していく。

心配でないわけがない。

 

でも、世のお母さんのほとんどは、目に入れても痛くないような存在をこうやって巣立たせるのだからすごい、そして強い。

 

私も負けてはいられない。

 

私はそっとキッチンに行き、朝食を作り始めた。

なによりも愛する我が息子のために。

 

「おはよう」

 

朝食ができたころ、悠真が起きて来た。

いつも通りのこの寝ぼけ顔ももうしばらくは見られない。

 

「ごはんできたよ」

 

「顔洗ってきたら食べる」

 

小さなテーブルの上には、卵焼きに焼き鮭、味噌汁に納豆。

みそ汁の具は玉ねぎと豆腐とわかめ。

北海道にいるときと変わらない朝食。

 

「いただきます!」と悠真。

 

「いただきます」と私。

 

「お母さん、今日はさ、俺10時から大学で説明会があるらしいんだ。どれくらいかかるのかわかんないけど行ってくるね」

 

「うん、悠真、お母さん今日帰らなくちゃなんない」

 

「…わかってる」

 

「ほんとはもう一泊位したいんだけどね。美織と健斗心配だからさ」

 

「うん、そうだね。あいつら二人っきりで留守番なんて初めてだしね」

 

「そうだねー。だからもし悠真が時間かかるようだったらお母さん出るからね。飛行機の時間もあるから。ごめんね」

 

「うん、わかった」

 

明らかに、悠真は心細いような顔をした。

 

それはそうだろう。

昨日来たばかりの見知らぬところに、一人置いて行かれるのだから。

それを楽しいと思える性格ならいいけれど、悠真は違う。

でも可哀そうだからと言って、もう一日引き延ばしても、明日また同じ思いを繰り返すだけ。

 

自立する子供が必ず通る道。

頑張れ悠真。

 

悠真は身支度を整えると、玄関に立つ。

ついこの間まで高校生だったのに、なんだか今日は立派な大学生に見える。親バカか。

 

「お母さん、じゃあ行ってくるね。なるべく早く帰ってくるから」

 

「うん、いってらっしゃい」

 

玄関を出て行こうとする悠真に私は声をかけた。

 

「悠真!一度きりの大学生活、めいっぱい楽しんでね!」

 

「うん、わかってるよ」

 

遅れてはいけないと、大学に向かう悠真の新品の自転車が眩しい。ピカピカで、軽快で、まるで、私の元から巣立っていく悠真のようだ。

 

私は部屋に掃除機をかけ、お風呂とトイレとキッチンもきれいにした。

 

時計を見ると12時前。

まだ悠真は帰らない。

もう出ないと飛行機に間に合わなくなる。

私は身支度を整え、悠真の帰りを待った。

 

がしかし、悠真は帰って来なかった。

 

しかたない。もう行かないと。

 

私は準備した悠真への贈り物と手紙をテーブルの上に置いた。

 

キャリーバックを持ち、玄関を出た私は、合いかぎを郵便受けから玄関に落とした。

 

悠真、頑張れ!

心の中でそう叫ぶと私は悠真のアパートを後にしたのだった。

 

最寄り駅、私はホームで一人電車を待つ。

そこに悠真からライン。

 

「お母さん、今帰って来たよ」

 

読んだと思ったらまたすぐライン。

 

「学部の説明会だった」

 

またすぐライン。

 

「あと明日の入学式の説明もあったよ」

 

「それからね…」

 

こちらが返事をする間もなく悠真からのラインが何個も何個も矢継ぎ早に続く。

 

寂しいよ。

帰らないでよ。

俺不安だよ。

 

親だから、18年一緒にいた親だから悠真の気持ちは手に取るようにわかる。

 

「悠真、頑張るんだよ!!!!」

 

そうラインした私は、混んできた駅のホームで号泣した。

恥ずかしい話だが、顔に手を当て嗚咽した。

 

だって愛しているから。

何よりも大切な息子なんだから、そこはしかたがない。

 

こっちに来る前、悠真の前では絶対に泣かないと決めて来た。それは守れたんだからもう泣いてもいい。

 

しばらくして、電車に乗ってから悠真からライン。

 

「今、昨日のお母さんのカレーあっためて食べてるよ」

 

涙が止まらない。

 

過保護と言われてもいい。

甘いと言われてもいい。

 

なぜなら、これが私だからだ。

 

 

 


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