翌日になっても夫からの連絡はなかった。
「それでいいよ」
その一言がもらえれば、それだけでいいのに。
私が、わざと高い物件を借り、少しでも夫の負担を増やしてやろうなんて考えてるとでも思っているのか。
他人に悪いことをする人は、他人も自分に悪いことをしてくると思う。
私だって悠真は学生で、親の世話になって都会暮らしをするのだから、慎ましく身の丈に合ったアパートで、奨学金を借りバイトもし生活してもらいたいと思っている。
そうでなければならないと、思っている。
それにはこのアパートが最適。
そしてここを借りるには、急いで仮押さえしないといけない。
焦る私。
私はまた設計事務所に電話をした。
やぶれかぶれだ。
夫が電話口に出た。
「お前何度もうるさいんだよ。こっちは仕事中なんだよ」
「それは悪いと思っています。ごめんなさい。だったら仕事終りに携帯に出てくれますか?いつかけたって、出てくれなかったじゃない。だから仕方なく事務所にかけてます」
「お前しつこいんだよ!」
いつものように、夫が怒鳴りだした。
不倫が始まり、夫が家にいるうちは、こうやって怒鳴られ、怖くて身を縮め私は黙って耐えるだけだった。
ちょっと反論したこともあったが、そしたら容赦なく壁に何個も穴を開けられた。
そんな日々を思い出した。
フラッシュバック。
怖い…
逃げたい…
でも、逃げない。
そんな脅しにはもう負けない。
他の誰でもない、私の子供のためなのだから。
怒鳴りたいならいくらでもどうぞ。
「あなたね、そんな怒鳴ったって私は引きませんよ。これは悠真にとって大事なことなんですからね。急に話を振ったのは悪かったけど。悠真と私が知ったのも最近で、それは仕方がないじゃない」
「黙れ!」
「昔のように、怒鳴れば黙ると思わないでね。大事な子供のためなら、何度だって電話するからね。冷静に考えなさいよ。悠真は東京の大学に行く以上どっかのアパートには、住まなくちゃいけないんだよ?
だったら安くて、条件のいいところにするのがお互いのためなんじゃないですか?少しでも、悠真にお金出すの少なくしたいんですよね?あなたは」
「お前、俺に指図するのか?頭にくる!俺はお前に殺意を感じるよ。お前らが住む家ごと全部燃やしてやりたいよ」
私を憎いならまだわかる。
しかし夫は「お前らが」と言った。
それは子供たちも含むという意味だ。
この言葉だけは、何があっても一生忘れない。
そんなこと、言われるほどのなにをしたの?
子供たちがいったいあなたになにをしたの?
教えなさいよ。
その時の私にもう自制心はない。
「今から行きます」
「はぁ?どこにだ?お前ふざけんなよ」
「美加の家に今から行きます。あなたも来てください。そこで美加と美加の家族も交えて話し合いましょう」
「何言ってんだお前」
「美加の母親が言ってました。なんで健太郎に、子供達を会わせないんだって。あなたは会いたがっているのに、私が会わせないってことになってるね。他にもあるんじゃないですか?美加や美加の家族に嘘ついていること」
「それは…」
「他にも、美加たちに調子のいい嘘ついてるんじゃないですか?この際だから、美加の前で話し合いましょうよ。あなたの給料美加に家に入れてるんでしょ。だったら悠真の進学費用のことだって美加たちも無関係ではないから」
「そんなこと、お前なんかにできるわけない」
「は?前にも行ってるでしょ?私は行けますよ。それされて、一番困るのはあなたですよね。
それじゃ、今すぐ家を出て、美加の家で待ってますから。あなた美加の家に住民票移してますよね。あそこがあなたの家なんだから、話し合いに行くならあそこでおかしくないですよね?今から行きます。そこで話し合いましょう。美加たちにも全部聞いてもらいましょう。本当のことをね」
「ちょっと!ちょっと待て!」
「美加に逃げろって電話しても無駄ですよ。今日がダメなら明日、また明日。車に泊まり込んであなたと美加に会えるまで、私は動きませんからね。覚悟しなさい。
今までのことも全部含めて、三人で話し合いましょう。美加さんもあなたから聞いていたことと違う話がいっぱい出て来て驚きますよね、きっと。じゃあ、後で」
これって脅しなんだろうな…
この長い台詞を吐きながら、私はそんなことを考えた。
夫よ、どうか私のこの挑発に乗ってくれ。
そうじゃないと、私はほんとに美加の家に乗り込んでいかなくてはならなくなるから。
「わかったよ!うるさいな!そのアパートでいいよ!そのアパートに住まわせてやるよ!」
ガチャンと電話が切れた。
私はその場にへたり込んだ。
ちなみにこの時の私に、美加の家に乗り込む勇気などほんとは微塵もない。乗り込む気持ちもない。
私が吐いたセリフは、その場で思いついた一か八かのはったりだ。
もし夫に「わかった。家で待ってるから来い」なんて言われたらどうしただろう。
考えただけでもぞっとする。
まずは良かった。
お気づきのように、法は犯さないまでも、私はこうやってどんどんどんどんずる賢い嘘つき女に成り下がっている。
でも、後悔はない。
それで子供たちの権利を守れるならば、私は本望なのだ。