「あの、奥さん。

それからもう一つあるんです」

 

浅見設計事務所の下請けの

今井直子が私にそう言った。

 

夫が直子ちゃんを

愛人にしようとしていたという

話だけでもショックなのに

 

これ以上

まだなにかあるの?

 

もう聞きたくない…

 

正直私はそう思ったのだった。

 

「もう一つ?

…まだなにかあるの?」

 

「奥さん

旦那さんが所長になりたての頃

ほんのちょっとの間だけ

そちらの事務所に事務の女の子が

入ったじゃないですか」

 

そうだった…

そんなこともあった…

 

当時仕事が忙しく

大学出たての

事務員を雇ったことがあったのだ。

 

もっとも彼女は2ヶ月足らずで

突然辞めてしまったのだが。

 

「そう、そう…

こんな騒動で忘れていたけど

2か月足らずで

辞めてしまった女の子いた。

その子がどうしたの?」

と私。

 

「名前、内山さんでしたよね。

あの子、何の断りもなく

突然事務所に来なく

なったんですよね?」

 

「そう…

聞いても

やめる理由は言わなかったんだ」

 

「実は設計事務所辞めた後

内山さんに偶然会って。

そしたら…」

と直子。

 

「…なに?会ってなに?」

 

「私と内山さんは

年も近いじゃないですか。

だから何度か話をしたこともあって」

 

内山さんは大学出たての22歳。

 

直子ちゃんは24歳のシングルマザー。

 

境遇は違えども

おじさんばかりの職場では

顔を合わせれば

自然と仲良くなることもあるだろう。

 

「私、内山さんとは

そちらの事務所で

顔見知りになってから

たまにスーパーとかで

ばったり会ったりすると

世間話したりしていたんです」

 

「そうなんだ」

 

「そんな仲だったもんで

彼女が

事務所辞めてから再会した時に

どうして急に辞めたのって

聞いたんです」

 

「うん、そしたら?

私も何度も聞いたんだけど

彼女絶対に理由言わなかったんだよね。

私には」

 

「彼女口ごもって最初はなかなか

言わなかったんですが。

彼女も本当は誰かに

聞いて欲しかったんでしょうね。

どうも事務所を辞めた理由が

所長からいろいろとセクハラが

あったからみたいなんです」

 

「セクハラ?

健太郎が大学出たての女の子に?

私も同じ職場にいるのに?」

 

「奥さんが帰られた後

事務所に二人きりになったとき

所長が私に言ったみたいなこと

言ったみたいで…」

 

「うそ!内山さんにも

愛人にならないかって?」

 

「はい。

あと、それを言われて

逃げようとしたときに

所長に腕掴まれたとかで」

 

「内山さんの腕をつかんだの…?」

 

「はい。

彼女、それで怖くなって次の日から

事務所行かなかったって」

 

内山さんは

化粧っ気もなく純情そうで

本当に「女の子」という感じ。

 

社会人というよりは

娘の美織とたいして変わらない印象。

 

そんな子に…ひどい…。

 

内山さんは

私の事務の補佐的仕事をするために

設計事務所に入ってもらった。

 

来なくなる前の日まで

私と一緒に普通に事務所で

働いていた。

 

その日もいつも通り

私と仕事をし

一緒にお弁当を食べ

笑いながら雑談もした。

 

その日の夕方5時過ぎ

私が先に退社するときも

内山さんは笑顔だった。

 

「奥さん、お疲れさまでした」

 

「お先に失礼します。

内山さん、また明日ね」

 

「はい、気を付けて」

 

そんな会話で私はいつも通り

事務所を後にした。

 

なのに

次の日出社してみると

彼女はいなく

彼女の机もロッカーも

空になっていたのだ。

 

そしてその後

彼女から一切連絡は来なかった。

 

こちらから

彼女の携帯に何度も連絡したが

電話に出ることはなかった。

 

当時

私には彼女の気持ちが全く

理解できなかった。

 

なぜ?どういうこと?

なにが悪かったんだろう。

 

彼女はそんな無責任なことを

する女性には見えなかった。

 

だとすると

よっぽどの理由があったに違いない。

 

それっていったいなんだろう。

 

当時の私には謎だった。

 

事務方としては

退職届ももらわなくてはならないし

保険証も回収しないとならない。

 

大学を出て

これから社会に出て行く彼女。

 

こんな無責任な辞め方を許しては

彼女のためにならない。

 

そう思い

私は彼女を事務所に呼び出し

説教をした。

 

説教をした。

 

「内山さん

事務所を辞めるなら

それでもいいんだけど。

あなたは正社員なんだから

せめて辞めるって事くらいは

ちゃんと辞表を出して

伝えてから辞めるべきじゃ

ないかな。

保険証だって返してもらわないと

いけないことになってるし。

どうやったって

ある日突然来なくなって

それで終わりって訳にはいかないよ。

もう社会人なんだから」

 

彼女は俯いて

私の言葉を黙って聞いていた。

 

彼女がこんな無責任なことを

する人でないことはわかっている。

 

ではなぜ?

 

「ねえ、内山さん

いったいどうしたの?

前の日まで普通にお仕事

頑張ってたよね。何かあったの?

私にできることがあったらするから

話してみてくれないかな」

 

「……」

 

「もし事務所に

なにか不都合があったなら

改善できることは善処するから

話してくれない?お願い」

 

私は何度もそう頼んだが

彼女は口を噤んで最後まで

辞める理由は頑として言わなかった。

 

あれは言わなかったのではなく

言えなかったのだ、特に私には。

 

むしろ、私だけには。

 

理由を教えてと言う私の目の前で

彼女は無言で涙を流した。

 

なんてことを

私は彼女にしたのだろうか。

 

自分の夫がしでかしたことも知らず

彼女を問い詰めるなんて。

 

どうせ辞めるんだから

夫のことを暴露してすっきりしても

良かったはず。

 

彼女がかたくなに口をつぐんだのは

たぶん、おそらく

私を傷付けないため?

 

私はなんてことを

してしまったんだろう。

 

 

 

 

「直子ちゃん

その後

内山さんとは会うことある?」

 

「以前もたまに

スーパーで会うぐらい

だったんですけど

最近は全然見かけません」

 

「そうか。

直子ちゃん、教えてくれて

ありがとう」

 

「とんでもありません。

私こそ今まで黙ってて

申し訳ありませんでした」

 

「そんなことないよ。

こっちこそ所長がごめんなさい…」

 

「離婚する時って

嘘みたいにもめるんですよ。

私、経験者ですからわかるんです。

その時にこの話が少しでも

奥さんの役に立てばと思ったから」

 

「うん、わかる。

もめるよね。ありがとう」

 

「お子さん達のためにも

負けちゃダメです。

頑張ってください」

 

「うん、頑張るよ」

 

「もし調停とかなにかになって

証言必要になったりしたら

私、証言しますから言ってください。

裁判所でもどこでも行きますから」

 

いくら調停が行き詰まっても

直子ちゃんに

そんなことはさせられない。

 

私の味方に付けば

今井左官には

設計事務所から仕事が行かなくなるから。

 

直子ちゃんの気持ちだけで私は充分。

 

「うん、直子ちゃん、ありがとう」

 

 

 

 

また

私はこうやって

人によって生かされる。

 

それにしても

24年も一緒にいて

初めて知る夫の裏の顔。

 

私は夫の一体なにを見てきたのだろうか。

 

でも何度も言うが

夫はこんな人ではなかったはず。

 

かつて私が愛した男は

こんな人ではなかったはずだ。

 

だが悲しいかな

この時点で一つはっきりと

言えることは

私の目が

とんでもない完全なる

節穴だということだろう。

 

 

 


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