栃木県道・福島県道伊王野白河線の県境に鎮座。周囲に駐車場がないので、私はやや広めの路肩を探して駐車しました。御神木の杉の木が神々しい。 

 

 「白河の関」跡と白河神社から南へ約3km、下野国(現在の栃木県)と陸奥国(福島県)の県境に鎮座する「追分の明神」。律令時代に建設された古代の官道「東山道」の関東最北、陸奥国の最南にあり、「境の明神」とも呼ばれています。

 

 実は栃木と福島の県境には、もう一座(正確には二社)、近世に入ってから整備された「奥州道中」(現国道294号)の「境の明神」が鎮座しますが、ややこしいので、ここでは東山道の「追分の明神」についてのみ記述します。

 

●社号 追分の明神(住吉玉津島神社)

●鎮座地 栃木県那須郡那須町大字蓑沢

●創建 延暦10年(791年)

●御祭神 住吉大神(中筒男命=なかつつおのみこと)

     玉津島姫(衣通姫命=そとおりひめのみこと)

 

 「那須町の文化遺産」公式サイトによると、東山道の「追分の明神」は、両県にまたがって二つの社があたったと伝わりますが、現存しているのは関東側の社だけだそう。

 どちらの県にどちらの神が祀られていたのか、定かではありませんが、地元の祭の旗には、「玉津島」とだけ記されているため、栃木県側に玉津島神社、福島県側に住吉神社があったと考えられています。関東側の社殿のみ残っているため、「関東宮」とも呼ばれているそうです。

 

 また、地元では「住吉玉津島神社」と呼ばれているそう。これは住吉神社と玉津島神社の二社があわさったためと思われるそうです。御祭神は、住吉の中筒男命、玉津島の衣通姫命。東山道の「白河の関」に鎮座する白河神社にも、同じく中筒男命、衣通姫命がお祀りされています。

 


福島県白河市側から見た「追分の明神」。森の中に鎮座しているからでしょうか、 なんだかドキドキしながら県境を超えました。古代の空気がそのまま残っているような感覚を覚えます。

 

●御由緒

坂上田村麻呂が東征の際、二柱を祀る 

 以下、那須町教育委員会の案内板より

 

 那須町指定史跡

 追分の明神(住吉玉津島神社)

 「境の明神」ともよばれている。東山道の関東、東北の境にある古い峠神である。古くは「下野」と「陸奥」の両国分の二社が並立していたともいわれるが、今あるのは関東分であり「関東宮」の名もある。

 創立は古く延暦一〇年(七九一年)坂上田村麿が、征夷の途次に勧請したものと伝えている。寄居字唐門の「境の明神」と共に、道中安全の神として、古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。

 那須町教育委員会

 

 前出の「那須町の文化遺産」公式サイトにも、「『陸奥国奥州 境神社旧記(さかいじんじゃきゅうき)』によると、坂上田村麻呂が延暦10年(791)蝦夷征伐の途中ここで休息したとき、白髪の翁(中筒男命)が現れ、田村麻呂と問答したという。田村麻呂はこのためここに祠を建て、中筒男命や衣通姫命を祀(まつ)ったとある」

 

 ということで、坂上田村麻呂の東征の際、創建されたことになっていますが、真実はいかに? もともと、土着の神様が祀られていたところに、ヤマトの神様である中筒男命と衣通姫命を祀った…なんてことも考えてしまいます。

 

 

古代の官道、「東山道」

 「追分の明神」が鎮座する東山道は、ヤマトと国府のある多賀城(現宮城県多賀城市)を結ぶ官道で、近江→美濃→信濃→上野→下野と内陸を通り、白河の関で陸奥国へ入ります。陸奥へ入ってからは、雄野(白河市表郷)→松田(白河市東)→岩瀬(須賀川市)→葦屋(郡山市)→安達(本宮市)→湯日(安達市)→岑越(福島市)→伊達(桑折町)と続く道でした。

 

 ヤマトと地方を結ぶ官道の整備は、飛鳥に都があった頃から始まっていたようですが、近江を起点にしていることを考えると、乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子と中臣鎌足が都を大津に移してからと本格的な整備がはじまったのでしょう……東山道についても、まだまだ勉強中。

 

 「ふるさと栄会」(秋田県横手市栄町の住民の皆さんによるサイト)によると、 東山道の完成は、大宝令が制定された大宝元年(702年)といわれているそうです。古代の官道は、かなり道幅が広いらしい。

 

 以前は「そうは言っても道路工事は大仕事だし、もともとあった地元の道を拡張して整備したんじゃないのかな?」と思っていましたが、いろいろな記事や本を読むと、まさしく「道なきところに道をつくる」という感じで、結構無茶苦茶な工事もしたらしい。古代のエネルギーというか、人力の酷使の仕方、すごい…(今なら完全ブラック)。

 

 「追分の明神」が鎮座するこの道は、果たして官道工事でガンガン峠を切り崩して整備されたのか、それとも以前から地元の人々に使われていた生活道路だったのでしょうか。

 

 奈良時代、平安時代と多くの人々が行き来したであろう東山道ですが、近世になり、奥州道中(現在の国道294号)が本道となってからは、脇街道になってしまいます。また、これは私の推察ですが、東山道のルートや遺跡の分布を見る限り、東山道が栄えていたころの白河の中心地は、棚倉や泉崎よりの表郷や東ですが、近世に入ると現在の白河市中心部に賑わいが移ります。それによって、「追分の明神」に道中安全を祈願する地元民や旅人も少なくなっていったのでは…と想像したり(あくまで想像…) 

 

●御祭神

住吉大神 中筒男命(なかつつおのみこと)

 大阪の住吉大社などの御祭神、住吉三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)の一柱。航海の神、漁業の神、海洋神。

 伊弉諾命(いざなぎのみこと)が、黄泉の国の穢れを清めるため、筑紫の日向で禊をしたときに出現した住吉三神の一柱(水底で生まれたのが底筒男命、水中で生まれたのが中筒男命、水上では表筒男命が生まれます)

 

 『日本書紀』によれば、仲哀天皇の御代、神功皇后に神がかりして、新羅征討や応神天皇の誕生を神託。新羅への出兵の際、三神の和魂(にぎみたま)は皇后の守護、荒魂(あらみたま)は軍船の先導を担ったとされます。新羅平定後、荒魂は穴門の山田邑(現在の下関市一の宮町)の住吉神社に、和魂は摂津の住吉郡(住吉大社)に祀られたそう。

 以上、以前アップした「白河神社」の記事からコピペ。

 

中筒男神とともに、道中安全の神とされる衣通姫命

 『古事記」では、第19代允恭天皇の皇女、軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名。同母兄の木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)と禁じられた恋に落ちる。それが原因で允恭天天皇の崩御後、軽太子は失脚し、伊予へ流刑となる。衣通姫も兄を追って伊予へ赴き、再会を果たした2人は自害する。

 

 『日本書紀』では、允恭天皇の皇后、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の弟姫(おとひめ)。近江坂田から入内し、藤原京(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや・泉佐野市)へ移り住む。天皇は遊猟にかこつけて通い続けるが、皇后のいさめを受けると、行幸は稀になったと伝わります。

 ちなみに、紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、現在は和歌山市の玉津島神社に稚日女尊、神功皇后と共に合祀されているそうです。

 こちらも以前アップした「白河神社」の記事からコピペ。

 

 住吉大神は、本来は航海守護の神ですが、そこから道中安全の神様になったのは、なんとなく納得できる。でも、衣通姫命が「和歌の神様」なのはまだしも(第58代光孝天皇(在位884-887年)の夢枕に衣通姫が現れて和歌の浦の歌を詠まれたためらしい)、道中安全の神として祀られたのか、今のところ、納得のいく資料にはお目にかかっていません。このへんも突っ込んでいくと、沼が待っているんだろうなあ。「追分」や「境の神、「道祖神」も気になる…。

 

 今度は「境の明神」を参拝してこなくちゃ…!こちらも何度か訪ねていますが、やはり県境を越えるとき、うなじの毛が逆立つような感覚を覚えます。

 


社殿の向かい側に設置された「是北白川領」の石の案内板

 


那須町指定史跡の案内板あり

 

「義経伝説」の案内板。義経の足跡も一度辿ってみたい

 


社号を記した社標


年代は記されていませんが、比較的近年に建立されたと思われる「修復記念」の記念碑。地域の人から大切に守られてきたことが分かります。前掲の那須町の文化遺産公式サイトには、「社前には二つの石燈籠があり、寛文7年(1667)と同9年(1669)の銘がある。追分村の井上源右衛門が寄進したもので製作がしっかりしており、この期の代表的な石燈籠である」とありましたが、そちらはチェックし忘れた。

 


覆屋に守られた社殿

 


覆屋内部。かなり損傷していますが、小さいながらも流麗な造りであったことがうかがえます。

 


御神木の3本の杉の1本。

 

栃木県那須町から福島県白河市方面を見たところ。晴れているのに、県境だけ鬱蒼と杉が繁っていて、神秘的な雰囲気です。