延喜式内社(正確には論社)を発見!

 

 「仙台縄文の森」を見学後、「地底の森ミュージアム」周辺でランチしようかなと考えていたら、「多賀神社」なる看板を発見! 多賀神社ってことは、滋賀県大津市の多賀大社からの御分霊? いや、仙台の次に国府が建てられる多賀城と関係するのか? ちょっと気になる…ということで、急遽参拝することにしました。

 

こちらの神社も住宅街の一角に鎮座されています。境内の周囲には昔、水が流れていたと思われる溝があり、橋がかけられ、なかなかよい雰囲気

 

社号発見。どうやら「延喜式内社」らしい。立ち寄った神社が式内社だなんて、ラッキー!

 

 

社号を記した社標

 

 

 あとから調べたところ、東山道名取郡小社の「多加神社」の論社の一社とのこと。

※論社とは、似たような名の神社が2つ以上あって、どれが「延喜式神名帳」に記載された神社なのか決定しづらい神社をいいます。

 

 記事の作成にあたり、以下のブログさまを参照させていただきました。ありがとうございました。とても勉強になるページでした!

 

①「宮城県の町並みと歴史建築」

宮城県の延喜式内社についてまとめたページがあります。

 

②「古今御朱印研究室」

延喜式と延喜式神名帳、延喜式内社そのほか神社の格式について、とても分かりやすくまとめられています。

 

「延喜式」って何? ざっくり説明

 神社めぐりがお好きな方なら、おそらく耳にしたことがあるであろう「延喜式内社」。そもそもなんなの? どこがどうすごいのか?(私は最初、全く分かりませんでした!)

 

 「延喜式」とは、奈良時代に施行された養老律令に対する施行細則を集めた法令集の一つ。平安時代の延喜5年(905)、醍醐天皇の命により左大臣の藤原忠平らが編集し、40年後の康保4年(976)に頒布されました。

 

 全50巻あり、そのうちの9、10巻が全国の国郡ごとの神社を記した「神名帳」。そこに記載されている神社が「延喜式内社」です。

 

 つまり、「延喜式神名帳」に記載された神社は、900年代にはすでに存在していた!

  ↓

 「歴史ある神社」ということになります。

 

 とはいえ、論社が複数ある地域も結構あります。なにせ、編纂・頒布から1000年以上の時が経っているわけで、廃絶した神社もあるし、戦乱や火事などで縁起を記した書物を失った神社もあるし、真偽を調べるのは難しい。

 

 ちなみに「延喜式神名帳」に記された「東山道名取郡小社 多加神社」のもう1社の論社は、名取市高柳にあり、こちらも現在は「多賀神社」と称しています。先ほどの「宮城県の町並みと歴史建築」の方に、情報があったので、リンクを貼らせていただきます。→名取市高柳に鎮座する多賀神社

 

 

勧請されたのは、ヤマトタケル東征の際、景行天皇の御代

 さて、仙台市太白区の多賀神社です。ご祭神は、やはり滋賀県大津市の多賀大社と同じイザナギノミコトでした。

 

 多賀神社由来(村社)延喜式内社

 ご祭神は伊邪那岐命(万人の祖神 延命・安産の神)

 

 第12代景行天皇40年(皇紀771年・西暦111年)に日本武尊東夷追討の折、この地に勧請された。次いで第21代雄略天皇2年(皇紀1117年・西暦457年)に圭田58束を賜り御祭式を行われたと伝えられる。

 

 その後、この地方の守護神として領主社様や武将の崇敬が厚く祭祀された。第70代後冷泉天皇の御代(凡そ900年前)鎮守府将軍源義家征東の際に名取川を渡って本社に参拝し、武運長久を祈り自筆の物を奉られた。

 

 享保(270年前)の頃に仮宮を建ててあったが大破し、徳川時代に伊達政宗(第17代)が仙台に居城を構えられてより、世々藩主の尊崇も厚く、第22代藩主重村公(凡そ250年前)の御寄進により、安永乙未年(西暦1775年)に社殿造影の御普請が行われた。又、角田城主石川宗光公より神號「多賀神社伊弉諾尊」の献上もあり、奥方様や代参の侍女の参詣で賑わいました。

 

 明治5年4月に村社に列し、同42年11月に大野田に鎮まり坐す春日神社(祭神 天児屋命)と寶龍社(祭神 高竈命)を合祀した。

 

 俚謡(世間のはやりうた) 伊勢に参らばお多賀に参れ お伊勢 お多賀の子じゃ孫じゃ

 

※雄略天皇の御代の「圭田」というのは、神田のことのようです。

 

 

弥生時代後半、ヤマト政権の先祖が名取にやってきた?

 第12代景行天皇の御代、ヤマトタケルの東征の際に勧請されたとあります。西暦111年は弥生時代後期にあたります。ちなみに卑弥呼が魏に使いを送ったのが、239年とのこと。その頃の倭国は、邪馬台国はじめさまざまなクニの連合体。で、その前がクニ同士が争っていた「倭国内乱」の時代。

 

 ヤマトタケルが本当にこの地まできたのかどうかは不明だけど、弥生時代後半、のちにヤマト王権となるクニの王子あるいは武将が支配権を広げるため、この地にやってきた……のは、確かなのでしょう(詳細はお勉強中です)

 

 「仙台縄文の森」で学んだように、現在は仙台市太白区となっている広瀬川と名取川に挟まれたこの土地は、縄文時代には集落が点在する豊かな土地であったらしい。弥生時代はどんな感じだったのだろう(学び忘れ)。やはり大きな集落が並び、稲作が行われ、首長的な人物もいたのだろうか? そこへのちにヤマトタケルと呼ばれるようになる存在がやってきて……と考えると、妄想がとまりません。

 

 ちなみに、名取市高柳に鎮座する多賀神社の創建は景行天皇28年(西暦98)と、こちらの多賀神社より古く記載されています。だからといって、名取市の多賀神社が「延喜式」に記された神社で確定!ってワケじゃない。そもそも、ヤマトタケルの東征自体が伝説(というか、神話?)の域を出ないわけだし。

 

「倭の五王」の一人、ワカタケル大王の支配はこの地にも?

 創建から時は流れ、西暦457年、雄略天皇の時代になり、「圭田58束を賜り御祭式を行われた」と伝わるらしい。

 雄略天皇は、中国の歴史書に記された「倭の五王」のうち、「武王」とされる古代の天皇。埼玉県のさきたま古墳群にある稲荷山遺跡から「ワカタケル」と読める文字を記した金錯銘鉄剣が出土されたことから、実在した大王とされています。

 

 ちなみにヤマトタケルの王子が第14代中哀天皇で、その王子が第15代応神天皇、さらにその王子が第16代仁徳天皇。このころ、河内には巨大な古墳が次々に築造されています。ヤマトタケルが西へ東へと征討を続け、ヤマト王権の支配地を広げ、王権を安定させた…ってことでいいのかな?

 さらに履中天皇、允恭天皇、安康天皇と続き、その次が第21代、雄略天皇(大泊瀬幼武=オオハツセワカタケル)。

 埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣は、持ち主がワカタケル大王(雄略天皇)に仕えたことを示す。

 

 名取市に巨大な古墳が点在していることを考えると、その頃には、ヤマト政権の安定した支配地は、名取の地にも及んでいたってことでいいのかな? 先日訪れた雷神山古墳の築造は古墳時代前期(250年~300年頃)らしいから、やっぱり弥生時代のうちにヤマトタケル的な人物がこの地の豪族を支配下に入れ、雄略天皇の時代には、安定支配に入っていた…のかも? 

 

 というより、ヤマト王権の対蝦夷の前線? その後、7世紀後半には、郡山遺跡でみたように陸奥国の国衙が建設され、蝦夷政策の前線基地としての役割は続く(そのあと、国府は多賀城に移る)。

 

 だからこそ、源義家も征東(前九年の役)の際、「名取川を渡って本社に参拝し」たのだと思われます。「征東の際」にこの地を訪れたのは、前回アップした諏訪神社の創建と同じ(諏訪神社では、創建したのは父親の源頼義となっていました)

 

 今回は参拝できなかったけど、もう一社の名取市の多賀神社も参拝してみたいと思っています。

 

清々しい空気漂う境内

 

由来を記した説明板

 

ご祭神不明…だけど

 

左は「木神 延命…」右は「??木 牛田恵治上」かな?

 

拝殿

 

手水舎

 

神楽殿

 

社殿扁額

 

かなり昔に寄進されたのでしょうか? 時の流れで摩滅したのか、参拝者に撫でられるうちに摩滅したのか、丸みを帯びた狛犬

 

こちらが春日神社かな?(だとすれば、手水舎前寶龍神社か?)

 

さまざまな石碑が並びます

 

奥が本殿。ぐるりとめぐると…

 

氏子の皆さんが置いていったのかな?

 

こちらも氏子の方が置いたものか? 小さなご神使様がいっぱい