名取市の雷神山古墳を見て、仙台市へ。ホテルにチェックインして、翌日のプランニング。

 

 以前から気になっていた「地底の森ミュージアム」と、「仙台市縄文の森広場」を見て、「そうだ、宮城県に行くのなら郡山官衙跡も見に行こう!」と思いついたのはいいものの、予備知識は「多賀城の前に陸奥の国衙があった場所」程度です。

 

 どこにあるのか、どんな遺跡なのか、見学できるのかすら、分からない(神社もそうですが、縄文時代も古墳もまだまだ勉強をはじめたばかりです)

 

そもそも「官衙」ってなに?

 というわけで、そもそも「官衙」って何? 郡衙(ぐんが)や国衙(こくが)との違いは? を調べてみたところ「官衙とは官庁・役所のこと。郡衙であれば郡役所、国衙であれば、国の役所を示す」らしい。

 

 ようするに、郡衙も国衙もひとまとめにして官衙ということでよろしいか? 郡衙は郡役所(現在の市町村の役場相当)、国衙は現在の県庁みたいなもの? 

 

 で、郡山官衙って、どこにあるの?

 

 検索してみると、「郡山遺跡」がヒット。所在地は仙台市太白区。へーと思ったのでした。

 

 実は「地底の森ミュージアム」も「縄文の森広場」も太白区にある。太白区のあたりは古代の中心地だったのかも?(と想像をふくらませる……)

 

 検索で出てきた写真によると、多賀城の国府跡のように建物が復元されている感じではなさそうだけど、案内板はあるようです。古代の官衙の雰囲気だけでも味わいたい。

 

 仙台市ホームページの太白区役所まちづくり推進課の情報によると、

 

・郡山官衙は、多賀城に陸奥国の国衙がつくられる前の陸奥国の行政施設だった。

・蝦夷政策と律令制による支配を行うための役所として機能していた。

・多賀城の造営とともに姿を消したが、それまでこの地は陸奥国の中心的な存在であり、寺が築かれ、大規模な建物が並んでいた。

 

 とのこと。郡山に官衙が造営されたのは、7世紀後半から8世紀初めの頃らしい。大化の改新あたりから律令国家にひたはしっていた頃です。

 

 というわけで、翌日朝、ホテルをチェックアウト。今日も暑くなりそうだから、午前中のうちに屋外をまわりたいと思い、出かけたわけですが、結構…

 

 広い!

(官衙だもの、あたりまえか)

 

 所在地が「郡山2丁目~6丁目」という時点で「?」だったのだけど、とにかく広いのです。後から知ったところによると、移籍跡はJR長町駅と国道4号バイパスの間の約60ヘクタールにも広がっているらしい。

 

最初に辿り着いたのは、郡山中学校のお隣の遺跡跡。ここは郡山廃寺跡らしい。周囲は住宅街でした。

 

案内板や記念碑がないと、遺跡だって気づかないかも?

 

 遺跡の大半は住宅地や道路、商業施設の下に埋もれており、現在は住宅街の中に官衙跡が点在している感じ。「ここは住宅建設予定地です」って感じの空き地があったら、そこは官衙跡って感じでした。大正時代には、すでに漆を塗った古瓦が出土していたらしいのですが、本格的な発掘が始まったのは昭和54年と、結構遅い時期のようです。それまでに周囲に住宅が建っちゃったのかな?

 

 とりあえず、郡山2丁目~6丁目内の住宅地内を車で走り、案内板のある空き地を見つけたら、車をとめて案内板を確認するの繰り返し。休日ということもあり、路駐してもご迷惑にはならないかなと判断しましたが(炎天下だったので、歩くのをあきらめたのもあります)、今後見学(?)される方はお気をつけください。

 

 まずは郡山官衙についてまとめてみます。というか、頭の中を整理したい。

 

 仙台市教育委員会の案内板によると、郡山官衙には、Ⅰ期官衙とⅡ期官衙があるらしい……と、説明板の内容をまとめようとしたのですが、仙台市のホームページの太白区役所まちづくり推進課の「太白区の自然と遺跡」の内容のほうが分かりやすいかも?

 

 

郡山官衙は2回建設された(Ⅰ期官衙とⅡ期官衙)

 前述したように、郡山官衙には、Ⅰ期官衙とⅡ期官衙があります。

 

 以下、太白区役所まちづくり推進課の情報。

 

・最初の官衙(Ⅰ期官衙)がつくられたのは7世紀後半。

・南北600m以上、東西300m以上の広さに、官衙院や倉庫群などが配置されていた。

 

 この基本情報に説明板の情報を補足。

 

・倉庫群や雑舎群、工房群、小規模な竪穴住居が密集する竪穴群がある。

・東北地方ではまれな畿内産の土師器が出土していることから、飛鳥の王権と直結した高級感人が派遣される国家的な施設だったと考えられる。

・立地や形態から日本海側に設置された「渟足(ぬたり)柵」や「磐舟柵」と同じような7世紀中頃から後半にかけての「柵」跡と考えられる。

 

 「渟足柵」「磐舟柵」とも、律令国家の支配に従わない蝦夷に備えて建設された城柵(「渟足柵」は新潟県新潟市、「磐舟柵」は新潟県村上市にあったようです)。最初の官衙(Ⅰ期官衙)は「国衙」というより、「柵」のようなものであったらしい。

 

 しかし、7世紀末、最初の官衙は取り壊され、「陸奥国衙」として新しい官衙(Ⅱ期官衙)が建設されます。

 

 またまた太白区役所まちづくり推進課の情報。

 

・新しい官衙(Ⅱ期官衙)の建設は7世紀末。Ⅰ期官衙を壊して建設されたと考えられる。

・方四町(428m四方)の広さに真北を基準にして造営された。

・寺院(郡山廃寺跡)が付属して造営された。

 

 さらに詳しく案内板の情報。

 

・1辺が約533m四方の外溝を外側にめぐらせ、内側には約428m四方(方四町)の大溝と塀となる材木がめぐり、官衙域を取り囲んでいた。

・材木列の南西隅と西辺には、櫓状の建物が設置されていた。

・官衙の中央部には、政庁を形成する四面廂(ひさし)付き建物の正殿があった。

 

・周辺には石敷きの広場や正方形の石組池などが配置されていた。石組池は陸奥国に居住する蝦夷に対する服属儀礼などに使用されたと考えられる。

・南には陸奥国で最初の本格的な寺院(郡山廃寺)が併設され、金堂、講堂、僧坊、塔などによる伽藍が形成されていたと考えられる。

 

 新しい官衙は規模も大きく、施設も最初の官衙とは全く違っており、「当時の都だった藤原京などとの類似が表れている」とのこと。

 

ほぼ「住宅建設予定地」の趣き。「この地点はⅡ期官衙の主要な官衙である『方四町Ⅱ期官衙』の南辺……(中略)……この説明板の南側に材木列と3列の区画が東西方向に延び、役所の内外を隔てていた」とのこと。このあり方は、当時の都であった藤原京の設計と強い関連があるとのことです。

 

高層マンション(かな?)を背景に遺跡跡。ブルーシートが見えます。発掘現場かな?

 

詳しい説明板。

 

説明板より。「この地点の北側は、Ⅰ期官衙とⅡ期官衙ともに中心部となっていた。Ⅰ期官衙では、約90×120mの板塀で囲まれた中枢部が、Ⅱ期官衙では石組池や石組溝、石敷き広場などが配置された『政庁』となっていた」

 

奈良時代に入り、陸奥国の国衙は郡山から多賀城へ

 まとめると、7世紀頃、ヤマト政権の蝦夷支配の出先機関として、郡山に官衙が建設された(ヤマト政権の東北支配は、この地まで及んでいた)。最初の官衙は、官衙(役所)というよりは、蝦夷対策のための「城柵」的なものだった。

 7世紀末、最初の官衙を取り壊し、新しい官衙を造営する。今度の官衙は、政庁や石敷きの広場、石組みの池などがある本格的な役所で、陸奥の国で最初の本格的な寺院が併設されていた。

 

 最初の官衙を取り壊した理由は不明ですが、案内板に「石組みの池が陸奥国に居住する蝦夷の服属儀礼などに使用された」とあるので、この地における蝦夷支配が落ち着き、「城柵」ではなく、「国衙」をつくろうということになったのかも?(あくまで想像です)

 

 その後、多賀城に国衙が移ったのは、720年(養老4)、蝦夷の反乱が起こり、陸奥国北方への支配を強める必要があったからのようです。

 このとき、ヤマト朝廷は多治比県守(たじひあがたもり)を征夷大将軍に任命し、反乱を鎮圧。その4年後の724年(神亀元年)、大野東人が多賀城を建設しています。

 

 ただし、案内板によると、郡山官衙は多賀城が建設されてからも機能していたらしい? もしかして多賀城国衙の支庁みたいな感じだったのかな?(このへんは不明)

 

 ちなみに、官舎跡など遺構の一部は、郡山中学校の1階部分に復元・展示されているとのこと。事前に予約すれば見学できるらしい。

 いろいろ調べていたら、今になってこんなブログを発見!

 

 「ブログで残そう八本松・郡山の記録」(八本松・郡山地域研究会)

 

 復元図もあり、分かりやすい! 八本松市民センターにあるというガイドブックは、現在も配布されているのでしょうか?

 

 発掘現場の多くは埋め戻されているらしいし、周囲に住宅が密集していることを考えると、多賀城のように復元するのは難しいと思いますが、栃木県下野市の薬師寺跡のようにVRで再現!とかできないでしょうか(住宅地なので、観光客にウロウロされても困る?) 

 

 できれば、移籍跡の近くに本格的な資料室を建設して、出土品が見られるようにしてもらえるとうれしいです。あと、遺跡ごと(発掘現場)に「正門跡」とか「石組池跡」とか、案内板を立ててもらえるとありがたいけど、住宅地だから…うーん…。

 

〈今後の課題〉

 多賀城の陸奥国の国衙ももう一度見に行く。

 陸奥国の郡衙について調べる。

 出羽国の国衙・官衙・城柵の勉強(先は長い…)