《御言葉斬りスピンオフ》

祈りって"信仰"の象徴でもあると同時に神様との対話のときを意味するものなの。

どこにいても、それは聖なる時間となり祈ってる最中の環境そのものが聖なる宮と化してるわけよ。

所謂プライベートルームみたいな?

さて、神様が何のために誰のために自らを犠牲になられたかは…猫やリスでも解る話だと思うけど
(アタシたちの罪のために何の罪もない神様が犠牲になられた)

そんな神様と直接対決・・・もとい、タイマン・・・もとい、マンツーマンで対話できるのは他の教えでは考えられないことかも。

それがChristianの特権なんだと思う。

Aoilogic
http://ameblo.jp/aoilogic4
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マタイによる福音書 21:21‭-‬22 
イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。 また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。
Matthew 21:21‭-‬22 
Jesus replied, "What I'm about to tell you is true. You must have faith and not doubt. Then you can do what was done to the fig tree. And you can say to this mountain, 'Go and throw yourself into the sea.' It will be done. If you believe, you will receive what you ask for when you pray."
馬太福音 21:21‭-‬22 
耶穌回答說:「我實在告訴你們,如果你們有信心、不懷疑,不但能使無花果樹枯乾,就算對這座山說,『從這裡挪開,投進大海裡!』也照樣可以實現。 所以,你們禱告時無論求什麼,只要有信心,就必定得到。」