昨日、こんな問題を出した。


問 次の歌詞を説明した言葉として最も適当なものを一つ選べ。


 いつも強い子だねって言われ続けてた
 泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
 そんな風に周りが言えば言う程に
 笑うことさえ苦痛になってた
             (浜崎あゆみ「a song for ××」より)

 ① 苦痛  ② 強さ  ③ あきらめ  ④ 孤独  ⑤ 純粋


 大学の文学部にはもはや時代遅れの感がある「文学理論」や「テクスト論」といった講座があって、文学作品を「テクスト」としてとらえ、そこに書かれてあることだけを手がかりにして、研究(というか推測?)を続けていく方法がある。


 昔の文学研究といえば、作家の日記や手紙を辿っていって、どういう状況でその作品が書かれたのかを調べる実証的な研究が一般的だったが、最近は(といってもテクスト論も時代遅れになってしまったが)、作家が作品を書いた状況をひとつひとつ丁寧に調べるということはあまりしなくなった(もちろん早稲田大学教授の石原千秋など、そういう研究スタイルを貫いている人もいるけどね)。


 このテクスト論の考え方は入試国語では非常に一般的だ。つまり「書かれていないことは絶対に選べない」というもので、どんな参考書にもこれは書いてある。逆に言えば国語はほかの教科と違って唯一問題文に答えが書いてある教科だともいえる。


 といっても、作品はどの読者に対しても「開かれて」いるわけで、例えばこの浜崎あゆみの「A Song for××」という歌詞を読んで、①~⑤のどの言葉を選んでも、あるいはそれらを組み合わせた言葉を選んでも、さらに①~⑤の言葉にはない別の言葉を選んでも、その歌詞を見て自分がそう思ったならそれが「正解」となる。


 極端な話、この歌詞の最初の「いつも強い子」という部分の「い」だけを見て、歌詞の内容にはまったく触れずに「〈い〉という字は〈以〉に由来する」という「感想」を持つ者もいるかもしれない。その人を積極的に「間違い」といいうる知の基盤は、実はない。

 しかしもちろん「入試国語」においてはそんなほぼ無限に拡がる答えをいちいち認めていられない。だからこそルールがある。ではそのルールとは何か。それはさっきから述べている非常に単純なルール。すなわち、


本文に書いていないことは絶対に選べない、というもの。


「本文に書いていないことは絶対に選べない」ということは「自分で勝手に想像してはいけない」ということで、入試国語においては想像力は殺さなければいけない。


 かつてセンター試験に山田詠美の小説が掲載されたとき、山田詠美自身が「選択肢の中に答えがひとつもない」と言い放った「痛快」な逸話があるけれど、まあ、本文を読んでいけば論理的に導けるという意味で(それもまたクセモノだけど)、作者の思想とか想像力なんて必要ない。もはや作品は作者の手を離れてる。


 それで。


 このルールに従って、上の4行の歌詞から正解を選んでみる。話が前後するけど、大学入試国語で一番大事なのは「言い換え」(これについてもまた後日)なので、要するに上の問題は、4行の歌詞を「言い換え」たとしたら、①~⑤のどの言葉が適当か、という問題になる。


 念のために述べておくと、浜崎あゆみの「A Song for ××」という歌詞はもっと長い。その歌詞の別の箇所を読めば、もっと容易に「正解」を導けるかもしれない。あるいは余計に混乱するかもね。でも、ここではあくまでも「入試国語」に焦点を絞っているため、この4行だけから読み取れる「正解」を提示しよう。


 さて、この歌詞に登場する「子」は「強い」のだろうか?


 本当に強い子だったら「泣かないで偉いねって褒められ」たなら、「嬉しい」はず。えへん。実際にこの子は「周り」が「泣かないで偉いね」と言えば「笑」ってる。ところがこの子はその「笑」いを「苦痛」に感じてる。なんで?


 じゃあ何が「苦痛」なのか。おそらくこの子は「褒められたら素直に笑って喜ぶ」という「ルール」は知っているカシコイ子なのだろう。しかしこの子は嬉しくなんかない。それでもそのルールに従って「笑う」。そうした一連の行為が「苦痛」ってこと。


 「泣かないで偉いねって褒められ」ているにもかかわらず「笑うことさえ苦痛」ということは、この子は本当は「弱い」のではないか。本当は弱いアタシ、なのに誰もわかってくれない。だからこそ「褒められ」ると「苦痛」を感じる。この「子」の想いを書き表してみると次のようになるだろうか。


本当は弱い自分。けれどそれを誰にも見せずに強いふりをして過ごしている。そうしているうちに周囲の人間は誤解して「あなたは強い子ね。泣かないのね。偉いね」と褒める。ちがうちがう。アタシは本当はずっとずっと弱いの。どうして気づいてくれないの。周囲の人間は相変わらずアタシを褒める。泣かないで偉いねって。ずっとそれを隠して笑ってきた。そんなルールぐらい知ってる。褒められたらえへんって笑うルールぐらい知ってる。強がって嬉しいふりをしてきた。けれどだんだんと褒められて笑っていることが苦痛になってきた。どうして誰もアタシをわかってくれないの?


 こうした感情がこの4行の歌詞に表現されている。


 じゃあ選択肢を見てみよう。


 まずこの「子」は「強い」ふりをしているが、実は「弱い」。このどちらかというわけではないので「② 強さ」は消える。またこうした状況を「③ あきらめ」ているわけではないし、本当は弱い自分を強い自分として偽っているのだから「⑤ 純粋」というわけでもない。


 迷うとすれば「① 苦痛」かな。これと「④ 孤独」を比べて、「最も適当なもの」を考えると、この状況をより的確にあらわした表現としては「④ 孤独」が適当じゃないか。「① 苦痛」という具体的なひとつの状況を、より拡げた意味合いをもたせれば「④ 孤独」になるから。


 つまり、たしかに「笑うことさえ苦痛」という具体的な一つの状況があって、それを積極的に否定することはできないんだけれど、「最も適当なもの」ということを考えると、「笑うことさえ苦痛だが、どうして誰も私が本当は弱いってわかってくれないの」ということまでを含めた「④ 孤独」の方がより適切になる。


 そしていま書いた「笑うことさえ苦痛だが、どうして誰も私が本当は弱いってわかってくれないの」という具体的な状況を「言い換え」たら、「孤独」になるのであって、これが「言葉のレベルが変わる」ということ。この「言葉のレベルが変わる」というのはとても大事な話でこれもまた後で書く。


 そうして、例えば国公立二次の国語であれば、「選択肢から選べ」ではなく「漢字二字で説明せよ」とか「三十字で説明せよ」とか、そういうふうに変わるわけで、言葉を「選ぶ」のではなく、言葉を「生み出す」のは、それはそれでまた別の次元でムズカシくなるのだが(あるいはカンタンになるのだが)、とりあえずセンター試験の形式に慣れることが大事じゃないか。


 こうしたことを考えると、「コクゴのベンキョー」は、もちろん机の前でカリカリやることも必要なんだけど、映画を観たり、トモダチとケンカしたり、恋人と電話やメールしたり、そういう場面場面で、相手の「考えを読みとる」練習をしている人が、意外なカタチで点数に反映されるかもしれない。


 あなたが浜崎あゆみさんと親友だとして、上の歌詞の意味を捉え損なったら、友情にヒビが入るんじゃね!? 浜崎さんが「⑤ 純粋」とか「③ あきらめ」の気持ちを持っていると考えた人はいないと思うが、あの歌詞を読んで「② 強さ」があるとか、「① 苦痛」を感じているとか、そういう風に思った人。


「浜崎さん、あなたは強いのね」って言っても、浜崎さんは心の中で「そうじゃないの。やっぱりわかってくれないのね」って思うんじゃないか。直接的な言葉に惑わされると、彼女の「本当の気持ち」はわからないよ。


 あと、また参考書批判になるけど、多くの参考書は本文の分析の仕方にすごく時間を割いてるわりに、選択肢の分析がいまいちで、受験生にとっては、なんでその選択肢が消えるかのほうがよっぽど気になるんじゃないか。「逆説があればその直後が重要」とか「キーワードを拾え」とか、まあわかるんだけど、じゃあ、本文で言いたいことはなんとなくわかっても、選択肢の微妙な差がよくわからんっていうのは、別に受験生だけでなく、国語の教師もよくわかってないかもしらん。


 上の問題でも「③ あきらめ」とか「⑤ 純粋」はさらって消えるって書いたけど、ここを説明するのが実は一番難しいのかもしれんなー。昨日の記事にあった「命がけの飛躍」ってこういうことだ。


 もしも大学入試国語にこんな問題があったら(ここに掲載することについて著作権の問題はクリアしてるみたい)。


問 次の歌詞を説明した言葉として最も適当なものを一つ選べ。


 いつも強い子だねって言われ続けてた
 泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
 そんな風に周りが言えば言う程に
 笑うことさえ苦痛になってた
             (浜崎あゆみ「a song for ××」より)

 ① 苦痛  ② 強さ  ③ あきらめ  ④ 孤独  ⑤ 純粋


 こういう問題を出すと生徒は喜ぶ。うんうん言って考える。


 答えは「④ 孤独」なんだけど、わかった? マルクス(あるいは柄谷行人)はかつて『資本論』の中で、商品が貨幣に変わることの比喩として「命がけの飛躍」と言ったけど、例えばこの問題も「⑤ 純粋」とか「③ あきらめ」を消すことはできても、最後に残った「① 苦痛」「② 強さ」「④ 孤独」から最も適当な一つを選ぶのに「命がけの飛躍」がいるかもしれない。


 そもそも「⑤ 純粋」とか「③ あきらめ」がなぜ消えるのか。


 次回からこのあたりの微妙な話をしていきたいと思う。


 もうすぐセンター試験だ。この2年連続して国語の平均点が100点ほどで、受験生にとって国語は鬼門みたいになってる。国語で悩んでいる生徒は多いんじゃないかな。


 それで色んな参考書を頼る(もう遅いかもしれないけど)。あるいは「頼ってきた」か。参考書には「国語(特に現代文だけど)はセンスではない。論理だ!」とか「国語の点数は必ず上がる!」とか書いてある。僕は本当かなー、と思いながら参考書を読んでみる。読んでみるとたしかにもっともらしいことが書いてあって、実践したら点数が上がるような感じがする。


 それでしばらくそういう参考書につきあってみて、自信をつけて、実際にセンター形式の問題を解いてみる。するとあれだけ(まあ量にもよるけど)やってきたのに、全然読めない。何が書いてあるのかわからない。時間だけが過ぎていって、選択肢は2つか3つには絞れても最後に1つに絞れなくて、よくわかんなくて、焦って「えいやっ!」って運に頼ってマークする。結果、100点に届かなかったり。一方の「国語なんて感覚だよ」と言って国語の勉強をしてなかったはずの友達が150点ぐらいとってる。かと思ったら、同じように「国語なんてセンスだよ」と言ってたまた別の友達が70点ぐらいで泣きそうになってる。でも次の模試では前回70点ぐらいだったヤツが130点ぐらいとってる。


 いったい何なんだ。この理不尽な教科は。


 あのね。


 参考書を書くエライ先生は予備校の先生が多いの。「この参考書で点数が上がる!」とか「オレの授業で点数が上がる!」って言わなきゃお商売が成り立たない。僕は高校という比較的安定した立場にいるから(元々予備校にいたんだけど)、自信をもってこう言える。


「国語の点数は、それほど上がらないよ」


 あるいはもっと別の言葉にすればこうなる。


「国語は費用対効果が少ない。全体で点数をとるなら英語とか数学とか地歴の方がコスパがいい」

「国語の成績の良し悪しは(生育環境を含めた上での)遺伝子による部分が大きい。『遺伝子』という言葉がきつすぎるなら、子どもの頃の家庭での会話量とか、絵本を読んでもらった量とか、言葉に対する敏感さとかに言い換えてもいい」

「たしかに本を読めば国語の成績が上がるんだろうけど、100冊とか200冊単位で上がるんじゃないか」


 参考書に書いてることが「ウソ」だとは思わないけれど、ああやって「国語の成績は上がるんですよ!」って言っておいて、上がらなかったら「それはあなたのやり方がまずいからです。もっと論理的になりなさい」なんて、不安を煽ってお金をとる商法と似てるんじゃないか。


 そう思って僕はこのブログを書き始めた。根拠もなく「国語の成績は上がる!」って、ちょっとした詐欺か、あるいは宗教か。まあたしかに成績が上がる子もいるから完全なウソとまでは言い過ぎだけど、僕の考えでは、ああいう参考書を読んで成績が上がる子は、元々「遺伝子」が良くて、国語の受験ゲーム的なコツがわからなかっただけの子であって、元々それほどいい遺伝子でない多くの者にとっては、費用対効果が悪い(何度も言うけど、遺伝子というのはその子が生育する環境にも影響されているから、それも含める。生まれながらにして家に数千冊の本がある家というのは、その親がそういう遺伝子の持ち主だったということで)。


 まあ信じられないという人はとりあえず1つだけ根拠をあげておく。


 灘高生のセンター試験の平均点。1学年220人ほどいるのだけど、そのうち150位くらいまでが毎年東大や京大にいく。上位50番ぐらいの生徒のほとんどは東大理Ⅲ(医学部)や京大医学部に進学する。ネットで出回ってたけど、2014年度のセンター試験の平均点はこちら。


英語 178.6

数学ⅠA 92.8

数学ⅡB 92.9

物理 92.6

化学 94.4

生物 82.7

日本史 83.8

世界史 88.5


と、まあ、いずれも8割超えてます。あ、国語だけのぞけば。で、国語。


国語 137.6


 灘高生は国語の勉強をしなかったんでしょうか。国語以外の教科は見事に8割超えるほど勉強してきたけど、「国語の成績は必ず上がる!」という参考書を読まなかったのでしょうか。僕はそんなことないと思います。やったけど上がらなかったんだと思います。そんなもんです、国語は。


 センター試験の国語の目標点は130~140点ぐらいで考えた方がいいですよ。恥ずかしながら僕も毎年必ずどっかではずす。かれこれ20年ほど受験国語(センターもそうだけど難関私立から東大京大まで)教えててもコレですから。と、うまい具合に「自己紹介」になったので、このあたりで。