刷毛目の器に盛られた樺太ししゃもの焼き物は
今夜の我が家のおかず
の一品。
ししやもはかつて樺太の
海で泳いでいた魚です。
、 赤いラディッシュも
塩尻の畑で陽の光を
浴びて育てられた野菜
です。この日のお夕飯の
他のおかずにはかぼちゃの
素揚げやニラの味噌汁、白菜の浅漬け等々。
食卓に並ぶものは、生きとし生けるものの生命を頂戴したものばかりです。
「頂きます」と手を合わせると、少し厳かな気持ちになります。
他の生命を殺生することで、己が生命をつなぐという直接性が和らぎます。
器をあれこれ選んだり、盛りつけを美しくしたり、食事時に
お作法が大切にされるのは、直接性を祓う手続き、
あるいは直接性へのオブラートなのかもしれません。
お作法も文化の一部と言えるのであれば、文化というものには多かれ少なかれ、直接性への
オブラートという意味が含まれているような気がします。

亡父は映画監督でしたが、殿様役を決める場合、役者には先ず、杯で
お酒を飲んで貰うそうです。口を突き出して、杯の方に口を近づける
役者は、まず殿様には向かないのだ、と度々申しておりました。
「お殿様というものは、ゆったりと杯の方を、口に近づけて飲むものだよ」飲み方ひとつで品位は現れる、と言いたかったのでしょう。。
箸使いがきれいだつたり、ナイフやフォークの使い方がきれいだったり
すると、一緒に食事をしていても清々しい気持ちになります。
反面、食事の作法が洗練されるという事は、他の生命を頂く、という
直接性からは遠くなる事でもあるような気がいたします。

時には、野趣に富んだ食べ方をしてみると
『他の生命』 を頂いていると
いう直接性が露わになって、
改めて、頂く生命への敬愛の念が沸いてくるの
も大切な経験かもしれません。